記憶の欠片
慧と別れて、廊下を歩き出した直後だった。
笑い声が、ひそひそとした声に混じって耳に入る。
「ねぇ、さすがにヤバいって。バレたらどうすんの?」
「……大丈夫だって。あいつ、誰にも相談してないっぽいし」
「……私のこと、売らないでね」
心臓が、嫌な音を立てた。
——愛梨ちゃん?
足が止まる。
振り返ると、クラスの女子たちが固まって立っていた。
その中の一人の視線が、わずかに揺れる。
「……愛梨ちゃん?」
声が、思ったより低く出た。
「今の、どういうこと」
一瞬の沈黙。
それから、軽く笑って誤魔化すような声。
「え、あー……あいつさ、私たちのこと殴ろうとしてきたから。ちょっと……ね?」
——嘘だ。
胸の奥で、はっきりと分かった。
愛梨ちゃんが、そんなことするはずがない。
「……どこ」
自分でも驚くくらい、声が強かった。
「愛梨ちゃんは、どこにいるの」
「ちょ、明日香。あんなやつのことなん——」
「どこかって聞いてるの!!」
声を張り上げた瞬間、空気が一気に冷えた。
「あーあ、せっかく上手に騙せてると思ってたのに。最っ悪……」
吐き捨てるような声。
その次の瞬間には、もう答えは出ていた。
——音楽室。
その言葉を聞いた途端、私は走り出していた。
考える暇なんてなかった。
ただ、嫌な予感だけが背中を押す。
「今更態度変えるの? ただの自己満じゃん!」
背後から投げつけられる言葉。
棘みたいに刺さるはずなのに、不思議と足は止まらなかった。
自己満でもいい。
偽善でもいい。
今は、愛梨ちゃんのところに行かなきゃ。
廊下を駆け抜けるたび、床が大きく軋む。
息が荒くなって、肺が痛い。
窓の外では、秋の空がやけに静かで、雲がゆっくり流れていた。
——間に合って。
——お願いだから、まだ……。
音楽室が近づくにつれて、胸の奥が締めつけられる。
不安が、はっきりと形を持ち始める。
あの日、避けてしまったこと。
声をかけなかったこと。
信じきれなかった自分。
全部が、今になって重くのしかかる。
「……待ってて」
誰に向けた言葉かも分からないまま呟く。
音楽室の前で、私は思わず足を止めた。
中に、誰かいる。
ひとり、いや……ふたり?
「愛梨、愛梨っ!」
慧の声が、廊下にまで響いていた。
その切羽詰まった呼び声に、心臓が跳ねる。
——間に合わなかった?
私は反射的にドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開けた。
音楽室の中は、ひどく散乱していた。
椅子は乱暴に引きずられたように倒れ、譜面台は床に伏せ、楽譜が雪みたいに散らばっている。
さっきまで静かだったはずの空間は、まるで嵐が通り過ぎた後みたいだった。
空気が重く、埃っぽくて、胸の奥がひりつく。
その中心で——
「……明日香」
弱々しく、でも確かに私の名前を呼ぶ声。
慧が、愛梨ちゃんを大切そうに抱えていた。
彼女の身体を支えるその腕は震えていて、表情は必死に感情を押し殺しているようだった。
「……っごめん、慧、私っ」
言葉が、喉で絡まる。
全部、私のせいだ。
避けたことも、信じきれなかったことも。
でも、慧は首を振った。
「謝るべき相手は、俺じゃない」
その声は静かで、でもはっきりしていた。
責めるよりも、現実を突きつけるような声音。
「……先生、呼んできてくれるか」
「分かった」
それだけ答えて、私は踵を返した。
足が震えて、うまく前に進まない。
それでも、走らなきゃいけなかった。
——逃げないって、決めたから。
職員室で先生を見つけ、必死に事情を伝えた。
言葉は途切れ途切れだったけれど、私の知っていることを、全部話した。
いじめのこと。
嘘の噂のこと。
音楽室に向かった理由。
話しながら、胸の奥がじわじわと痛くなる。
今まで、黙っていたこと。
見て見ぬふりをしたこと。
それら全部が、今日につながってしまった気がして。
先生の表情が変わっていくのを見ながら、私は強く思った。
もう、愛梨ちゃんを一人にしない。
ちゃんと謝って、ちゃんと向き合う。
あの日、私はそう誓った。
笑い声が、ひそひそとした声に混じって耳に入る。
「ねぇ、さすがにヤバいって。バレたらどうすんの?」
「……大丈夫だって。あいつ、誰にも相談してないっぽいし」
「……私のこと、売らないでね」
心臓が、嫌な音を立てた。
——愛梨ちゃん?
足が止まる。
振り返ると、クラスの女子たちが固まって立っていた。
その中の一人の視線が、わずかに揺れる。
「……愛梨ちゃん?」
声が、思ったより低く出た。
「今の、どういうこと」
一瞬の沈黙。
それから、軽く笑って誤魔化すような声。
「え、あー……あいつさ、私たちのこと殴ろうとしてきたから。ちょっと……ね?」
——嘘だ。
胸の奥で、はっきりと分かった。
愛梨ちゃんが、そんなことするはずがない。
「……どこ」
自分でも驚くくらい、声が強かった。
「愛梨ちゃんは、どこにいるの」
「ちょ、明日香。あんなやつのことなん——」
「どこかって聞いてるの!!」
声を張り上げた瞬間、空気が一気に冷えた。
「あーあ、せっかく上手に騙せてると思ってたのに。最っ悪……」
吐き捨てるような声。
その次の瞬間には、もう答えは出ていた。
——音楽室。
その言葉を聞いた途端、私は走り出していた。
考える暇なんてなかった。
ただ、嫌な予感だけが背中を押す。
「今更態度変えるの? ただの自己満じゃん!」
背後から投げつけられる言葉。
棘みたいに刺さるはずなのに、不思議と足は止まらなかった。
自己満でもいい。
偽善でもいい。
今は、愛梨ちゃんのところに行かなきゃ。
廊下を駆け抜けるたび、床が大きく軋む。
息が荒くなって、肺が痛い。
窓の外では、秋の空がやけに静かで、雲がゆっくり流れていた。
——間に合って。
——お願いだから、まだ……。
音楽室が近づくにつれて、胸の奥が締めつけられる。
不安が、はっきりと形を持ち始める。
あの日、避けてしまったこと。
声をかけなかったこと。
信じきれなかった自分。
全部が、今になって重くのしかかる。
「……待ってて」
誰に向けた言葉かも分からないまま呟く。
音楽室の前で、私は思わず足を止めた。
中に、誰かいる。
ひとり、いや……ふたり?
「愛梨、愛梨っ!」
慧の声が、廊下にまで響いていた。
その切羽詰まった呼び声に、心臓が跳ねる。
——間に合わなかった?
私は反射的にドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開けた。
音楽室の中は、ひどく散乱していた。
椅子は乱暴に引きずられたように倒れ、譜面台は床に伏せ、楽譜が雪みたいに散らばっている。
さっきまで静かだったはずの空間は、まるで嵐が通り過ぎた後みたいだった。
空気が重く、埃っぽくて、胸の奥がひりつく。
その中心で——
「……明日香」
弱々しく、でも確かに私の名前を呼ぶ声。
慧が、愛梨ちゃんを大切そうに抱えていた。
彼女の身体を支えるその腕は震えていて、表情は必死に感情を押し殺しているようだった。
「……っごめん、慧、私っ」
言葉が、喉で絡まる。
全部、私のせいだ。
避けたことも、信じきれなかったことも。
でも、慧は首を振った。
「謝るべき相手は、俺じゃない」
その声は静かで、でもはっきりしていた。
責めるよりも、現実を突きつけるような声音。
「……先生、呼んできてくれるか」
「分かった」
それだけ答えて、私は踵を返した。
足が震えて、うまく前に進まない。
それでも、走らなきゃいけなかった。
——逃げないって、決めたから。
職員室で先生を見つけ、必死に事情を伝えた。
言葉は途切れ途切れだったけれど、私の知っていることを、全部話した。
いじめのこと。
嘘の噂のこと。
音楽室に向かった理由。
話しながら、胸の奥がじわじわと痛くなる。
今まで、黙っていたこと。
見て見ぬふりをしたこと。
それら全部が、今日につながってしまった気がして。
先生の表情が変わっていくのを見ながら、私は強く思った。
もう、愛梨ちゃんを一人にしない。
ちゃんと謝って、ちゃんと向き合う。
あの日、私はそう誓った。