記憶の欠片
 合図の音が、会場に響き渡る。

 私は決められた位置について、バトンを握る手を何度も確かめる。

 指先が少し冷たい。

 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。

 ——スタート直後、白組が転けた。

 一瞬、会場がざわつく。


「大丈夫か!?」


 そんな声が飛び交う中、差は一気に開いてしまった。

 胸がきゅっと縮む。

 でも——次の走者、三湊くんが飛び出した瞬間、空気が変わった。

 大きなストライド、迷いのないフォーム。

 一人、また一人と前の走者を追い抜いていく。


「三湊ー!!」


「いけぇ!!」


 応援の声が一段と大きくなる。

 気づけば、広がっていたはずの差は、目に見えて縮まっていた。

 ——すごい。

 バトンが次へ、次へと繋がれていく。

 他の組が先にスタートし、トラックを駆け抜けていく中で、電光掲示の順位表示は——白組、現在二位。


「……まだ、いける」


 そう呟いた瞬間。


「愛梨!」


 明日香ちゃんの声が、すぐ後ろから聞こえた。

 振り返ると、彼女が必死な表情で走ってくる。

 肩で息をしながら、それでも真っ直ぐ、私だけを見ている。


「——行くよ!」


 バトンが、私の手に押し込まれる。

 掌に伝わる、確かな温度。


「任せて」


 短くそう返した次の瞬間、私は地面を強く蹴った。

 ——ここからは、私の番だ。

 風を切る音。

 耳元で鳴り続ける応援。

 視界の端に、前を走る一位の背中。


「……絶対に追いつく」


 地面を蹴るたび、足裏に硬い感触が返ってくる。

 息が、少しずつ荒くなる。

 ——追いつきたい。

 でも、前を走っているのは男子だ。

 体格も、脚の長さも、どう考えても不利。

 背中はまだ、遠い。

 無理、かな……。

 一瞬、弱気が胸をよぎった、その時。


「愛梨、頑張れっ!」


 ——はっ、と息を呑む。

 間違えるはずがない。

 その声。

 ……慧くん。

 胸の奥が、きゅっと熱くなる。

 雨の中で差し出された傘。

 「俺が守るから」って言葉。

 全部が一気に蘇る。

 ありがとう。

 きっと私、またあなたのこと、前よりもっと、好きになってしまった。


「——っ!」


 歯を食いしばって、さらにスピードを上げる。

 風が耳元を唸りながら通り抜けていく。

 体操服の裾が激しく揺れる。

 心臓の音が、やけに大きい。

 でも、怖くない。

 ——諦めない。

 一歩、一歩、確実に距離が縮まる。

 前の男子の背中が、すぐそこに見えた。


「……っ!」


 最後の力を振り絞って、横に並ぶ。

 そして——追い抜いた。


「うおおお!」


「すげぇぇーー!!」


 歓声が、波のように押し寄せる。

 世界が、少しだけスローモーションになる。

 そのまま私は、アンカーの献くんのもとへ駆け寄り、全身の力を込めてバトンを差し出した。


「——お願い!」


 献くんにバトンを渡した、その直後だった。

 ——空気が、変わった。

 献くんが地面を蹴った瞬間、まるで風圧が波のように押し寄せる。

 体育館のざわめきが、一拍遅れて静まり返った。

 ……速い。

 二位との差を広げるどころじゃない。

 最初から、追わせる気すらない走り。

 一直線に伸びる背中が、ぐんぐん遠ざかっていく。


「なに、あれ……」


「速すぎ……」


 私の目は、ただ献くんだけを追っていた。

 大きく腕を振り、無駄のないフォーム。

 長いレーンを一周しきる頃には、もう勝敗は誰の目にも明らかだった。

 ——白組、圧勝。

 ゴールテープを切った献くんは、そのまま減速せず、まっすぐ、私の方へ向かってくる。


「え——?」


 次の瞬間、強く、でも優しく、ぎゅっと抱きしめられた。


「……っ!」


 周囲から、「キャーーー!!」という悲鳴にも似た歓声が一斉に上がる。

 でも、不思議と何も聞こえなかった。

 耳に届くのは、すぐそばで上下する、献くんの荒い息遣い。

 胸越しに伝わる、早鐘のような鼓動。

 ——どくん、どくん。

 同じ速さで、自分の心臓も鳴っているのがわかる。


「……愛梨ちゃん」


 低く、少し掠れた声が、耳元で響いた。

 顔が、熱い。

 心臓が、追いつかない。

 たったそれだけの抱擁なのに、世界の中心に、二人きりで立っているみたいだった。
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