記憶の欠片
扉を抜けた瞬間、屋内の熱気が嘘みたいに、ひんやりした空気が肌に触れた。
人の気配はほとんどない。
遠くから聞こえる拍手とアナウンスが、壁一枚隔てた別世界の音みたいにぼやけて聞こえる。
献くんは立ち止まり、私の腕を離して、少しだけ距離を取った。
さっきまで走っていたせいか、肩がわずかに上下していて、その息遣いが、まだ落ち着いていない。
「……ごめん、強引で」
そう言いながらも、彼は私から目を逸らさなかった。
沈黙。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、静けさが重くのしかかる。
「……なに、話って」
自分でも驚くくらい、声が小さくなった。
献くんは一瞬、言葉を探すみたいに唇を噛んで、それから、覚悟を決めたように息を吸う。
「……ずっと、好きだった」
その一言が、静かな空気に落ちて、胸の奥で、鈍い音を立てて跳ねた。
吹き抜ける風に、献くんの髪が揺れて、さっきまでの熱を残したまま、頬を汗が伝っていく。
——好き、だった。
「……え」
それだけしか、声が出なかった。
まさか。
本当に、まさかだ。
献くんは、いつも軽くて、明るくて、からかうみたいに距離が近くて。
でもそれは、誰にでもそうなんだと思ってた。
私に向けられた特別だなんて、一度も、考えたことがなかった。
「気づいてなかったよね」
苦笑するように、献くんは言う。
「……でも、いいんだ。気づかれないくらいが、ちょうどよかった」
そんなふうに言われて、胸が、きゅっと締めつけられる。
「リレーのときさ」
視線を逸らしながら、彼は続ける。
「走ってる愛梨ちゃんを見て、ああ、やっぱ無理だなって思った」
「何が……?」
「好きな気持ち、抑え続けるの」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「笑ってるとこも、必死な顔も、誰かの声で走り出すところも」
一歩、近づかれる。
「全部、好きでさ」
逃げ場なんて、なかった。
——気づかなかった。
献くんが、私のことを、そんなふうに見ていたなんて。
でも、思い返してみると——確かに、その節はあったのかもしれない。
困ったとき、自然に隣にいたのは献くんだった。
階段でよろけたときも、文化祭の準備で一人残っていたときも。
理由を聞かず、当たり前みたいに手を差し伸べてくれていた。
あれは、優しさだけじゃなかったのかもしれない。
「……ありがとう、でも私……」
そこまで言いかけた瞬間。
「うん、分かってる」
即答だった。
思わず、目を見開く。
「ずっと見てたからさ。愛梨ちゃんが、誰を見てるかなんて……」
少し困ったように、でも穏やかに笑って。
「ずーっと前から、知ってたよ」
胸が、きゅっと痛む。
「だからさ」
献くんは一歩下がって、私とちゃんと距離を取った。
「今度こそ、愛梨ちゃんの恋、応援するから」
その笑顔は、いつもと同じようで。
でも——彼の腕は、ほんの少しだけ、震えていた。
気づいてしまって、何も言えなくなる。
「……ごめんね……ありがとう」
気持ちに答えられなくて、ごめん。
それでも、伝えてくれて、ありがとう。
献くんは、最後にもう一度だけ私を見て、それからふっと視線を空に逃がした。
「……泣かないで。俺、振られ慣れてるからさ」
冗談みたいな口調。
でも、その声はほんの少しだけ掠れていた。
「献くんは、強いね」
そう言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
「強くないよ。ただ……好きな人の幸せを願えるくらいには、大人になりたかっただけ」
風が吹く。
汗を乾かすように、秋の冷たい空気が通り抜けていく。
「ほら、戻ろ。優勝チームのアンカーいないと締まらないでしょ?」
そう言って、献くんはいつもの調子で手を振った。
振り返らずに、会場の方へ歩き出す背中。
——その背中が、少しだけ遠く感じた。
私は胸に手を当てる。
ドキドキとは違う、じんわりとした痛みと、確かな温かさがそこにあった。
誰かに想われること。
それは、こんなにも重くて、優しい。
再び会場に戻ると、白組の優勝が告げられ、歓声が天井を揺らした。
拍手、笑顔、写真を撮る声。
体育大会は、何事もなかったかのように幕を閉じていく。
でも、私は知っている。
今日という日は、確かに何かが終わって、そして、何かが始まった日だということを。
夕方の空は、もう秋の色をしていた。
オレンジから、淡い群青へ。
——季節は、確実に進んでいく。
冬が、やってくる。
人の気配はほとんどない。
遠くから聞こえる拍手とアナウンスが、壁一枚隔てた別世界の音みたいにぼやけて聞こえる。
献くんは立ち止まり、私の腕を離して、少しだけ距離を取った。
さっきまで走っていたせいか、肩がわずかに上下していて、その息遣いが、まだ落ち着いていない。
「……ごめん、強引で」
そう言いながらも、彼は私から目を逸らさなかった。
沈黙。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、静けさが重くのしかかる。
「……なに、話って」
自分でも驚くくらい、声が小さくなった。
献くんは一瞬、言葉を探すみたいに唇を噛んで、それから、覚悟を決めたように息を吸う。
「……ずっと、好きだった」
その一言が、静かな空気に落ちて、胸の奥で、鈍い音を立てて跳ねた。
吹き抜ける風に、献くんの髪が揺れて、さっきまでの熱を残したまま、頬を汗が伝っていく。
——好き、だった。
「……え」
それだけしか、声が出なかった。
まさか。
本当に、まさかだ。
献くんは、いつも軽くて、明るくて、からかうみたいに距離が近くて。
でもそれは、誰にでもそうなんだと思ってた。
私に向けられた特別だなんて、一度も、考えたことがなかった。
「気づいてなかったよね」
苦笑するように、献くんは言う。
「……でも、いいんだ。気づかれないくらいが、ちょうどよかった」
そんなふうに言われて、胸が、きゅっと締めつけられる。
「リレーのときさ」
視線を逸らしながら、彼は続ける。
「走ってる愛梨ちゃんを見て、ああ、やっぱ無理だなって思った」
「何が……?」
「好きな気持ち、抑え続けるの」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「笑ってるとこも、必死な顔も、誰かの声で走り出すところも」
一歩、近づかれる。
「全部、好きでさ」
逃げ場なんて、なかった。
——気づかなかった。
献くんが、私のことを、そんなふうに見ていたなんて。
でも、思い返してみると——確かに、その節はあったのかもしれない。
困ったとき、自然に隣にいたのは献くんだった。
階段でよろけたときも、文化祭の準備で一人残っていたときも。
理由を聞かず、当たり前みたいに手を差し伸べてくれていた。
あれは、優しさだけじゃなかったのかもしれない。
「……ありがとう、でも私……」
そこまで言いかけた瞬間。
「うん、分かってる」
即答だった。
思わず、目を見開く。
「ずっと見てたからさ。愛梨ちゃんが、誰を見てるかなんて……」
少し困ったように、でも穏やかに笑って。
「ずーっと前から、知ってたよ」
胸が、きゅっと痛む。
「だからさ」
献くんは一歩下がって、私とちゃんと距離を取った。
「今度こそ、愛梨ちゃんの恋、応援するから」
その笑顔は、いつもと同じようで。
でも——彼の腕は、ほんの少しだけ、震えていた。
気づいてしまって、何も言えなくなる。
「……ごめんね……ありがとう」
気持ちに答えられなくて、ごめん。
それでも、伝えてくれて、ありがとう。
献くんは、最後にもう一度だけ私を見て、それからふっと視線を空に逃がした。
「……泣かないで。俺、振られ慣れてるからさ」
冗談みたいな口調。
でも、その声はほんの少しだけ掠れていた。
「献くんは、強いね」
そう言うと、彼は苦笑いを浮かべた。
「強くないよ。ただ……好きな人の幸せを願えるくらいには、大人になりたかっただけ」
風が吹く。
汗を乾かすように、秋の冷たい空気が通り抜けていく。
「ほら、戻ろ。優勝チームのアンカーいないと締まらないでしょ?」
そう言って、献くんはいつもの調子で手を振った。
振り返らずに、会場の方へ歩き出す背中。
——その背中が、少しだけ遠く感じた。
私は胸に手を当てる。
ドキドキとは違う、じんわりとした痛みと、確かな温かさがそこにあった。
誰かに想われること。
それは、こんなにも重くて、優しい。
再び会場に戻ると、白組の優勝が告げられ、歓声が天井を揺らした。
拍手、笑顔、写真を撮る声。
体育大会は、何事もなかったかのように幕を閉じていく。
でも、私は知っている。
今日という日は、確かに何かが終わって、そして、何かが始まった日だということを。
夕方の空は、もう秋の色をしていた。
オレンジから、淡い群青へ。
——季節は、確実に進んでいく。
冬が、やってくる。