桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~
「長い夢から覚めたみたいだった。生まれた時から頭にあった靄も、心に巣食っていた愛憎も、ウサギ達や君が鏡を割った後から、すっと消えた。少し、それが寂しくも悲しくもあったが」
 帽子屋が、寂しそうに苦笑いをする。その眼差しの先には、『アリス』を愛した『帽子屋』の想いがあるのだろうか。それとも、『アリス』がいるのだろうか。
「俺は一日がこんな優雅に過ごせて最高だぜ。常に眠かったあの日々、何かした気がしなくて人生損した気分にもなるけどな」
「一日起きていても、何か成す人なんて早々いないだろうし、ドブネズミはドブに浸かって終わるんじゃない?」
「お? そろそろネコの丸焼きを食おうと思っていたところだ」
「喧嘩するなら場所移動してくださいねー」
「チェシャ猫は眠りネズミ相手だと黙らないな」
「帽子屋も、眠りネズミも、呪いが解けたの? 本当に?」
「あぁ」
「解けたぜ。だから泣くなよ、アリス」
 眠りネズミの言葉で、私は涙がこぼれたことに気づく。ダメだな、私。やっぱり泣き虫のままだ。
 帽子屋がそばにきて、ハンカチで涙をそっと掬う。泣いたら迷惑をかけると思うのに、皆の顔を見ると涙が出てくる。
 出会った時のこと、触れた想い、もらった勇気。
 帽子屋が狂った時の痛みも、眠りネズミの布団の温かさと不安も、三月ウサギの血の色も、鮮明に思い出せる。グリフォンの美味しいスープも、海ガメの秘密も。薄れてしまっていた物語が、本を開いて捲られていくように、色鮮やかになる。
 私は不思議の国に帰ってきたんだ。でも、ハリーお兄様やロリーナお姉様、家族のことも忘れていない。桃色のアリスとして、アリス・リデル・プレザンスとして、私は帰ってきた。
「みんな、ありがとう。力を貸してくれて、私を助けてくれてありがとう」
「ありがとう、アリス」
 誰かのありがとうの言葉が、皆の心と私を繋いでいく。
 狂気の中から助けてくれてありがとう。
 苦しみから解放してくれてありがとう。
 頑張ったな、アリス。ありがとう、アリス。
「み、みんなっ、良かった、みんなに、会いたかった、大好きだよ」
 溢れでてくる愛しさや感極まった想いを制御出来ない。自分でも驚くくらい、大きな泣き声が喉から出てくる。
 誰かの手が、ポンポンと頭を撫でて、誰かが肩を叩いて、誰かの温もりが私を包み込む。
「アリスが帰ってきてくれて良かったぜ。呪いが解けた時、誰もが憑き物が落ちたみたいに感じた。受け継がれてきた眠りネズミの苦しみが、なくなったんだ。でも同時に、焦った。アリスがこの国から消えたんだって、もう二度と会えないってな」
「何しろアリスが戻ってくる前例がないですからねー。呪いが解けた後の事なんて、誰もわからないですしー」
 海ガメが珍しく難しい顔をしているのがぼんやりと見えて、どれだけ皆に心配をかけたのかが身に染みてくる。でもそれは一瞬で、直ぐに悪戯な笑みに戻って、まるで海ガメの方がチェシャ猫らしいと思ってしまう。
「まさかチェシャ猫も消えると思わなかったけどな。チェシャ猫が消えて、アリスが消えて、でも呪いは解けていて、俺達大パニック。店を開くどころか、スープを作る余裕だってなかったんだぞ。メアリーだって、さ」
「そういえば、メアリーは一緒じゃないの?」
 海ガメ、グリフォン、メアリー。いつも一緒の三人だと思っていたのに、メアリーの姿が側に見当たらない。嫌な予感がして、まだ流れてくる涙を手で振り払う。
「もしかして呪いで何かあったの? メアリーは無事なの?」
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