それぞれの幸せ
「帰ろう、母さん……」
 疲れたように言葉を落とすと、八重子が何かを言いかけて……グッと言葉を詰まらせたのが分かった。
「あなた、雄二に相談……」
「ダメだ。あいつにだけは言うな!」
 幸太郎は、八重子にも重い気持ちを背負わせてしまったことを申し訳なく思いながらも、息子にだけはこのことを知られてはいけないと思った。

 ホームを渡る風が、油の匂いと冬の冷たさを一緒に運び去っていく。
 列車の進入を知らせる風圧が頬を打った。
 ――今、このまま身を投げれば、すべて終わる。
 けれど、そんなことをしては家族に迷惑が掛かるのは目に見えていた。
 すぐ隣で、八重子がギュッと自分の服の端を掴んでいる。
 まるでその小さな手が、自分をこの世へ引き留めているかのようだった。
 どうすれば、家族に迷惑を掛けずにこの窮地(きゅうち)を乗り切れるのか。

 その答えを見つけられないまま、夜が更けていった。


***


 その夜、玄関の外から靴音がした。
 硬い革靴がコンクリートを叩く音。
 続いて、金属の柵を蹴る音が響いた。
「おい、出てこいよ! 返済の期日、過ぎてんだろ!」
「借りたもんは返す。当たり前のことだよなぁ?」
 数人の男の声が、工場と隣の家を取り囲む。
 八重子が蒼ざめ、震える手で幸太郎の袖を掴んだ。
「出るな」
 幸太郎は低く言って、玄関の戸を閉めた。
 やがて男たちは、曇りガラス越しにこちらを覗き込む。
「……へぇ、いい家だな。息子さん、いい男じゃねぇか。ゲイビでも通用するぜ?」
 下卑た笑いが漏れ、八重子が顔を覆う。
「奥さんも綺麗じゃねぇか。熟女モノに出りゃあ、結構稼げる。なぁ? 悪くねぇ話だろ?」
 幸太郎は咄嗟に前へ出て、声を震わせながら吐き捨てた。
「妻と息子には手を出すな。……帰れ!」
 男たちはニヤニヤと笑い、ひとりが吐き捨てた。
「期日まであと三日。覚悟しとけよ」
 車のドアが乱暴に閉まる音。
 残されたのは、耳鳴りのような静けさだった。

 八重子は嗚咽を漏らし、幸太郎は膝に顔を伏せた。
 守りたかった家族が、汚されかけた。
 これ以上、この手でなにも守れないのなら――。

***

 深夜、幸太郎は工場へ戻った。
 作業灯だけをつけ、旋盤の刃に油を差す。
 磨き上げた金属が、月明かりを弾いて鈍く光った。
 ウエスで最後の汚れを拭き取り、電源を落とす。
 ポケットから封筒を取り出し、短く書き記した。
『保険金で母さんを頼む。雄二には言うな。心配かけたくない』

 字は震え、油の染みが涙のように滲んだ。

 静かな夜だった。
 旋盤機の機械油の残り香だけが、まだ薄く漂っていた。
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