それぞれの幸せ
3.千崎雄二『招かれざる客』
警察が引き上げたあと、家の中はやけに静かだった。
幸太郎の首吊り現場の第一発見者は妻の八重子。
茫然自失の状態で火事場のくそ力。どうやったのか記憶にないままに、ぶら下がったままの夫の身体を縄から外して床へと降ろした。
すぐさま救急車へ電話を掛けようとしたが、震える手はなぜか自然と息子・雄二にSOSを送っていた。
そんな八重子に代わって、救急車の手配をしたのは雄二だ。
『……はい、119番です。火事ですか? 救急ですか?』
電話の向こうの落ち着いた声に、雄二はグッと受話器を握りしめた。
「救急です。父が……首を吊っていたらしく、息をしていないそうです」
『現場にはどなたかいらっしゃいますか?』
「母がいます。……ですが、動揺していて電話には出られません」
『分かりました。場所を教えてください』
「南町の工場です。海の近くの、小さな鉄工所です」
『お父さんの意識は? 呼吸や脈はありますか?』
「すみません、私はまだ現場へ到着していないので詳しいことは……。母が第一発見者ですが、意識は愚か呼吸もしていないと……」
『了解しました。救急車をすぐに向かわせます。お母さまに、可能であればお父さまの首を圧迫しているものを外して、平らなところに寝かせていただくようお伝えください』
通信指令員の冷静な声が、現実を突きつけるように耳へ刺さった。
「……分かりました」
本来ならば心臓マッサージや人工呼吸なども促される場面だろう。
だが、そんな指示を受けても、今の母にそれを実行できるはずもなかった。
***
雄二がやっとの思いで実家へたどり着くと、家の前には警察車両だけが残っていた。
駆けつけた雄二を迎えたのは、制服姿の警官たちだった。
「救急隊の方は……」
「応急処置を試みましたが、すでに……。今は我々が現場検証を行っています」
玄関の奥、工場へと続く通路にはブルーシートが敷かれ、何人かの警察官が黙々と作業を続けている。
それを呆然と見つめる小さな背中を見つけた雄二は、警察官にそっと黙礼すると足早にそちらへ向かった。
「母さん」
「雄二……」
息子の顔を見るなりその場へへたり込みそうになった八重子を咄嗟に支えると、「一旦母を休ませてきます」
雄二は警官らにそう声をかけて現場を離れた。
***
工場と母屋を隔てる扉の向こうには、まだ黄色い規制線が張られたまま。
父の遺体は検視のために運び出され、戻るのは明日になるという。
工場から家屋へと続く玄関先のセメントには、警察官たちの防護靴の泥が、いくつもの足跡となって残っていた。
乾きかけた泥の粉が、外気に揺れてかすかに舞い上がる。
ほんの数時間前まで慌ただしい人の気配で満ちていた場所が、いまはただ、静寂だけを宿していた。
家の中へ入ってみれば、母・八重子が座卓の前にひざをつき、手を合わせたままぼんやりと座っていた。
幸太郎の遺体がないので、線香を焚くこともできない。
それでも、昨日までは確かにここで生きていた彼の痕跡が、そこかしこに残っている。
そのことが、いっそう物悲しかった。
幸太郎の首吊り現場の第一発見者は妻の八重子。
茫然自失の状態で火事場のくそ力。どうやったのか記憶にないままに、ぶら下がったままの夫の身体を縄から外して床へと降ろした。
すぐさま救急車へ電話を掛けようとしたが、震える手はなぜか自然と息子・雄二にSOSを送っていた。
そんな八重子に代わって、救急車の手配をしたのは雄二だ。
『……はい、119番です。火事ですか? 救急ですか?』
電話の向こうの落ち着いた声に、雄二はグッと受話器を握りしめた。
「救急です。父が……首を吊っていたらしく、息をしていないそうです」
『現場にはどなたかいらっしゃいますか?』
「母がいます。……ですが、動揺していて電話には出られません」
『分かりました。場所を教えてください』
「南町の工場です。海の近くの、小さな鉄工所です」
『お父さんの意識は? 呼吸や脈はありますか?』
「すみません、私はまだ現場へ到着していないので詳しいことは……。母が第一発見者ですが、意識は愚か呼吸もしていないと……」
『了解しました。救急車をすぐに向かわせます。お母さまに、可能であればお父さまの首を圧迫しているものを外して、平らなところに寝かせていただくようお伝えください』
通信指令員の冷静な声が、現実を突きつけるように耳へ刺さった。
「……分かりました」
本来ならば心臓マッサージや人工呼吸なども促される場面だろう。
だが、そんな指示を受けても、今の母にそれを実行できるはずもなかった。
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雄二がやっとの思いで実家へたどり着くと、家の前には警察車両だけが残っていた。
駆けつけた雄二を迎えたのは、制服姿の警官たちだった。
「救急隊の方は……」
「応急処置を試みましたが、すでに……。今は我々が現場検証を行っています」
玄関の奥、工場へと続く通路にはブルーシートが敷かれ、何人かの警察官が黙々と作業を続けている。
それを呆然と見つめる小さな背中を見つけた雄二は、警察官にそっと黙礼すると足早にそちらへ向かった。
「母さん」
「雄二……」
息子の顔を見るなりその場へへたり込みそうになった八重子を咄嗟に支えると、「一旦母を休ませてきます」
雄二は警官らにそう声をかけて現場を離れた。
***
工場と母屋を隔てる扉の向こうには、まだ黄色い規制線が張られたまま。
父の遺体は検視のために運び出され、戻るのは明日になるという。
工場から家屋へと続く玄関先のセメントには、警察官たちの防護靴の泥が、いくつもの足跡となって残っていた。
乾きかけた泥の粉が、外気に揺れてかすかに舞い上がる。
ほんの数時間前まで慌ただしい人の気配で満ちていた場所が、いまはただ、静寂だけを宿していた。
家の中へ入ってみれば、母・八重子が座卓の前にひざをつき、手を合わせたままぼんやりと座っていた。
幸太郎の遺体がないので、線香を焚くこともできない。
それでも、昨日までは確かにここで生きていた彼の痕跡が、そこかしこに残っている。
そのことが、いっそう物悲しかった。