それぞれの幸せ
第九章 失くしたままでは終われない
第1節 千崎雄二『まだ、追えない』
早朝。
葛西了道へ呼び出された千崎雄二は、その口から妻の雪絵が百香を連れて家を出たことを聞かされた。
「……千崎」
低く、重い声。
「今度こそ、筋を通せ」
逃げ場を塞ぐような声音だった。
「雪絵と百香に、ちゃんと向き合え」
最初から、分かっていた。
中途半端なままでは、全部駄目になることくらい。
「その上でなら――」
わずかな間。
「テメェの抱えてるもんも、どうにかしてやる」
あれはつまり、雪絵とのことへけじめをつけたなら百合香とのことを認める、という了道なりの筋だった。
(……今さらかよ)
胸の奥で、自嘲が滲む。
了道の屋敷を後にし、車へ乗り込むなり煙草に火をつける。
常ならば、若い衆に運転させているところだが、今日は百合香を自分の手で送ってやりたかったこともあって、久々に自身でハンドルを握っていた。
そのまま了道の家にも運転手無しで来たのだが、今日みたいに物思いに耽りたいときにはひとりきりというのは有難かった。
煙を吸い込むと、苦い味が口腔内へ広がる。
これを旨い、などと思ったことは一度もない。
煙草なんて、銀行員をやっていたころには吸わなかったものだ。
極道界に入ってから、気が付けば苦々しい思いを紫煙に乗せて吐き出したいみたいに、煙草の本数が増えていた。
それだけのことだ。
(百合香……)
百合香からは、いつも身体によくないよ、と心配されていたのを思い出す。
雪絵とは出合った時から喫煙者だったから何も言われたことはなかったが、一応に百香の前では吸わないように心掛けていた。
もし百合香と暮らせるようになったなら、禁煙するのもありかもしれない。
(そのためには――)
まだやらねばならないことがいくつかある。
雪絵との話し合い。百香への詫び。
考えただけで気が重いが、それらを乗り越えないままに百合香を手元に置くことは不可能だろう。
吐息まじり、ひときわ長く煙を吐き出したと同時に胸ポケットの携帯がブーッ、ブーッ……と耳障りな音を立てて振動した。
しばらく放置してみたが、長々と鳴り続けて切れたかと思えば、また再度着信が入る。
雄二は小さく舌打ちをして、携帯を内ポケットから取り出した。
画面には【三井隆司】の表示。
(雪絵のこと、もう嗅ぎ付けたのか……)
ある意味、今一番関わりたくない相手からの着信だった――。
「もしもし」
『……俺だ。なぁ千崎よ、少し、時間作れや』
いつも通りの口調。
だが、そのことが逆に嫌な予感を漂わせる。
「何の用だ?」
出来れば、今すぐにでも雪絵に連絡を取って、話し合いをしたい。
もちろん、戻ってきて欲しいなんて言うつもりはない。
百香のことをどうするのか。離婚の条件は何なのか。――話さねばならないことは山ほどある。
『とぼけるなよ、千崎。何の用か分からねぇわけねぇだろ』
電話からフッと三井の吐息まじりの嘲笑が聴こえてくる。
雄二は隠さず大きく息を吐いた。苦い煙が、それに重なるように空中へ溶けていく。
「雪絵のことか」
『ああ』
「夫婦のことに、部外者が口出しするのは感心しない」
あえて〝部外者〟のところへ力を込めれば、三井が一瞬押し黙る。
『……それでも、だ。――俺は雪絵さんのそば離れるとき、了道に宣言してんだよ。――もし雪絵さんが不幸になるようなことがあったら、黙っちゃいねぇってな』
今度は雄二が押し黙る番だった。
「…………そうか」
指先へ挟んだ煙草からポロリと灰が太ももの上へ落ちて散らばる。
三井の言い分は、実にあの男らしいものだと思った。
きっと三井にとっての雪絵は、雄二にとっての百合香だ。
「――三井、今どこだ?」
雄二は三井の答えを聞いて、「すぐに行く」と告げる。
スーツの上に落ちたままの灰が、やけに厄介なものに見えた――。
葛西了道へ呼び出された千崎雄二は、その口から妻の雪絵が百香を連れて家を出たことを聞かされた。
「……千崎」
低く、重い声。
「今度こそ、筋を通せ」
逃げ場を塞ぐような声音だった。
「雪絵と百香に、ちゃんと向き合え」
最初から、分かっていた。
中途半端なままでは、全部駄目になることくらい。
「その上でなら――」
わずかな間。
「テメェの抱えてるもんも、どうにかしてやる」
あれはつまり、雪絵とのことへけじめをつけたなら百合香とのことを認める、という了道なりの筋だった。
(……今さらかよ)
胸の奥で、自嘲が滲む。
了道の屋敷を後にし、車へ乗り込むなり煙草に火をつける。
常ならば、若い衆に運転させているところだが、今日は百合香を自分の手で送ってやりたかったこともあって、久々に自身でハンドルを握っていた。
そのまま了道の家にも運転手無しで来たのだが、今日みたいに物思いに耽りたいときにはひとりきりというのは有難かった。
煙を吸い込むと、苦い味が口腔内へ広がる。
これを旨い、などと思ったことは一度もない。
煙草なんて、銀行員をやっていたころには吸わなかったものだ。
極道界に入ってから、気が付けば苦々しい思いを紫煙に乗せて吐き出したいみたいに、煙草の本数が増えていた。
それだけのことだ。
(百合香……)
百合香からは、いつも身体によくないよ、と心配されていたのを思い出す。
雪絵とは出合った時から喫煙者だったから何も言われたことはなかったが、一応に百香の前では吸わないように心掛けていた。
もし百合香と暮らせるようになったなら、禁煙するのもありかもしれない。
(そのためには――)
まだやらねばならないことがいくつかある。
雪絵との話し合い。百香への詫び。
考えただけで気が重いが、それらを乗り越えないままに百合香を手元に置くことは不可能だろう。
吐息まじり、ひときわ長く煙を吐き出したと同時に胸ポケットの携帯がブーッ、ブーッ……と耳障りな音を立てて振動した。
しばらく放置してみたが、長々と鳴り続けて切れたかと思えば、また再度着信が入る。
雄二は小さく舌打ちをして、携帯を内ポケットから取り出した。
画面には【三井隆司】の表示。
(雪絵のこと、もう嗅ぎ付けたのか……)
ある意味、今一番関わりたくない相手からの着信だった――。
「もしもし」
『……俺だ。なぁ千崎よ、少し、時間作れや』
いつも通りの口調。
だが、そのことが逆に嫌な予感を漂わせる。
「何の用だ?」
出来れば、今すぐにでも雪絵に連絡を取って、話し合いをしたい。
もちろん、戻ってきて欲しいなんて言うつもりはない。
百香のことをどうするのか。離婚の条件は何なのか。――話さねばならないことは山ほどある。
『とぼけるなよ、千崎。何の用か分からねぇわけねぇだろ』
電話からフッと三井の吐息まじりの嘲笑が聴こえてくる。
雄二は隠さず大きく息を吐いた。苦い煙が、それに重なるように空中へ溶けていく。
「雪絵のことか」
『ああ』
「夫婦のことに、部外者が口出しするのは感心しない」
あえて〝部外者〟のところへ力を込めれば、三井が一瞬押し黙る。
『……それでも、だ。――俺は雪絵さんのそば離れるとき、了道に宣言してんだよ。――もし雪絵さんが不幸になるようなことがあったら、黙っちゃいねぇってな』
今度は雄二が押し黙る番だった。
「…………そうか」
指先へ挟んだ煙草からポロリと灰が太ももの上へ落ちて散らばる。
三井の言い分は、実にあの男らしいものだと思った。
きっと三井にとっての雪絵は、雄二にとっての百合香だ。
「――三井、今どこだ?」
雄二は三井の答えを聞いて、「すぐに行く」と告げる。
スーツの上に落ちたままの灰が、やけに厄介なものに見えた――。