それぞれの幸せ
三井に指定されたのは、繁華街の外れにある行きつけの小料理屋だった。
暖簾をくぐると、出迎えた女将が静かに頭を下げる。
「……三井さんは奥にいらっしゃいます」
「わかった」
雄二は短く返し、そのまま店の奥へ歩を進めた。
一番奥の個室。よく密談をするときに雄相会の面々が使わせてもらう部屋だ。
襖を開けると、そこには既に三井が座っていた。
「……珍しいな」
雄二が低く言う。
「いつもなら、酒ぐらい飲んでそうだが」
卓上には灰皿と、女将が運んできた煮付けや刺身が並んでいる。
だが、箸を付けた形跡はほとんどなかった。
「今日はそんな気分じゃねぇ」
三井は短く返す。
その声色だけで分かる。
相当、機嫌が悪い。
雄二は向かいへ腰を下ろし、懐から煙草を取り出した。
咥え煙草のまま、火を点ける雄二を無言で見つめていた三井が、ぽつりと切り出す。
「……雪絵さん、出て行ったそうだな」
低い声。
卓越しに三井からじろりと睨まれた雄二は、眼鏡の奥の目をスッと細めて、紫煙を吐き出した。
「相変わらず雪絵のことになると耳が早いな」
「当たり前だ」
三井の声がさらに低くなる。
「……なぁ、千崎。なんでだよ」
「……《《私》》と雪絵が最初から条件付きの、冷え切った関係だったことはお前も知ってるだろ? 何を今さら――」
「俺が言ってるのはそのことじゃねぇ。――なんで、あの人が誕生日に家出て行くことになったかって聞きてぇんだ」
静かな声音だった。
だが、その奥には押し殺した怒気が滲んでいる。
「説明しろ、千崎」
内心で、(《《また》》そのことか……)と思ったけれど、雄二は何も言わなかった。
了道も三井も、同じことを言って自分を責めてくる。
もちろん、悪いことをしたとは思っているが、元より愛なんてない結婚だ。雪絵の誕生日を祝わなかったことなんて、何も今に始まったことじゃない。不器用な自分に、好きでもない女の誕生日を祝えという方が酷なことなのだ。
だが、仮にも〝夫〟という立ち場を思えば、いちいち言い返すのもおかしな話だというのも分かっている。
ましてや昨日は、娘からも帰宅を促したいみたいな打診があった。それを無視したことに、罪悪感を覚えていないわけじゃない。
雄二が押し黙ったことが、三井を余計に苛立たせたみたいだ。
「……どうせてめぇのことだ。愛人んトコへでも行ってたんだろ」
「……皆から預かった祝儀を渡しに行っただけだ。泊まったりはしていない」
「は? そんなん誰が信じるっちゅーんだ!? 相良さんと神田さんの祝い事を、愛人んトコへ顔出す免罪符にすんなや」
三井が吐き捨てる。
「もともと雪絵が百合香とのことは許してたんだ。免罪符にする必要なんてないのは、お前だって知ってるだろ」
雄二が低い声音でそう告げると、三井が一瞬、バツが悪そうに視線を逸らした。
そもそも、雄二としては雪絵から課せられた義務は果たしたのだ。とやかく言われる筋合いはない。
「…………だとしても、だっ! 仮にもお前と雪絵さんは夫婦だろーがよ。誕生日くらい祝ってやれや」
「祝うも何も……」
妻の誕生日を覚えていなかったというのは、さすがに褒められたことじゃないだろう。
そこは了道からも批難された部分だ。
雄二は一瞬だけ動きを止めると、手にしていた煙草を灰皿へ押し付けるようにしてもみ消した。まだ、十分吸える長さだったにも関わらずそんなことをしたからだろう。
三井がじろりと雄二を睨みつける。
「まさか……忘れてたわけじゃねぇよな?」
沈黙が落ちた。
嘘を吐くことは簡単だっただろう。だが、雄二はそうしたくなかった。
どうせ雪絵は出て行ったのだ。今更どう取り繕ったところで意味はない。
(ならばいっそ――)
自分にとって、雪絵の存在はその程度なのだと、いい加減三井にも知らしめてやりたくなった。
暖簾をくぐると、出迎えた女将が静かに頭を下げる。
「……三井さんは奥にいらっしゃいます」
「わかった」
雄二は短く返し、そのまま店の奥へ歩を進めた。
一番奥の個室。よく密談をするときに雄相会の面々が使わせてもらう部屋だ。
襖を開けると、そこには既に三井が座っていた。
「……珍しいな」
雄二が低く言う。
「いつもなら、酒ぐらい飲んでそうだが」
卓上には灰皿と、女将が運んできた煮付けや刺身が並んでいる。
だが、箸を付けた形跡はほとんどなかった。
「今日はそんな気分じゃねぇ」
三井は短く返す。
その声色だけで分かる。
相当、機嫌が悪い。
雄二は向かいへ腰を下ろし、懐から煙草を取り出した。
咥え煙草のまま、火を点ける雄二を無言で見つめていた三井が、ぽつりと切り出す。
「……雪絵さん、出て行ったそうだな」
低い声。
卓越しに三井からじろりと睨まれた雄二は、眼鏡の奥の目をスッと細めて、紫煙を吐き出した。
「相変わらず雪絵のことになると耳が早いな」
「当たり前だ」
三井の声がさらに低くなる。
「……なぁ、千崎。なんでだよ」
「……《《私》》と雪絵が最初から条件付きの、冷え切った関係だったことはお前も知ってるだろ? 何を今さら――」
「俺が言ってるのはそのことじゃねぇ。――なんで、あの人が誕生日に家出て行くことになったかって聞きてぇんだ」
静かな声音だった。
だが、その奥には押し殺した怒気が滲んでいる。
「説明しろ、千崎」
内心で、(《《また》》そのことか……)と思ったけれど、雄二は何も言わなかった。
了道も三井も、同じことを言って自分を責めてくる。
もちろん、悪いことをしたとは思っているが、元より愛なんてない結婚だ。雪絵の誕生日を祝わなかったことなんて、何も今に始まったことじゃない。不器用な自分に、好きでもない女の誕生日を祝えという方が酷なことなのだ。
だが、仮にも〝夫〟という立ち場を思えば、いちいち言い返すのもおかしな話だというのも分かっている。
ましてや昨日は、娘からも帰宅を促したいみたいな打診があった。それを無視したことに、罪悪感を覚えていないわけじゃない。
雄二が押し黙ったことが、三井を余計に苛立たせたみたいだ。
「……どうせてめぇのことだ。愛人んトコへでも行ってたんだろ」
「……皆から預かった祝儀を渡しに行っただけだ。泊まったりはしていない」
「は? そんなん誰が信じるっちゅーんだ!? 相良さんと神田さんの祝い事を、愛人んトコへ顔出す免罪符にすんなや」
三井が吐き捨てる。
「もともと雪絵が百合香とのことは許してたんだ。免罪符にする必要なんてないのは、お前だって知ってるだろ」
雄二が低い声音でそう告げると、三井が一瞬、バツが悪そうに視線を逸らした。
そもそも、雄二としては雪絵から課せられた義務は果たしたのだ。とやかく言われる筋合いはない。
「…………だとしても、だっ! 仮にもお前と雪絵さんは夫婦だろーがよ。誕生日くらい祝ってやれや」
「祝うも何も……」
妻の誕生日を覚えていなかったというのは、さすがに褒められたことじゃないだろう。
そこは了道からも批難された部分だ。
雄二は一瞬だけ動きを止めると、手にしていた煙草を灰皿へ押し付けるようにしてもみ消した。まだ、十分吸える長さだったにも関わらずそんなことをしたからだろう。
三井がじろりと雄二を睨みつける。
「まさか……忘れてたわけじゃねぇよな?」
沈黙が落ちた。
嘘を吐くことは簡単だっただろう。だが、雄二はそうしたくなかった。
どうせ雪絵は出て行ったのだ。今更どう取り繕ったところで意味はない。
(ならばいっそ――)
自分にとって、雪絵の存在はその程度なのだと、いい加減三井にも知らしめてやりたくなった。