それぞれの幸せ
「……雪絵の誕生日を祝ったのは結婚前……お前に言われてケーキを買って帰った一度っきりだ」
「は……?」
 三井の目が細くなる。
「……お前」
「分かってるだろう、三井。《《俺》》にとって大事なのは百合香だけだ。……お前が雪絵を一番に思うように、俺には百合香しか見えてないんだよ。――それは結婚する前も、した後も変わらない事実だ」

 だから雪絵の誕生日なんて覚えているわけがないのだと――。あえて百合香の前でそうするように、雄二は一人称を〝俺〟にして、初めて本音を三井にぶちまけた。
 殴られることを覚悟しての暴露だったが、三井は脱力したように力を抜いた。

 そうして初めて……声に本気の失望を滲ませてつぶやく。
「俺は……雪絵さんが十歳の頃からずっと見てる」
「……」
「親ぁ亡くして不幸続きだった人だ。……誰よりも幸せになってほしかった」

 静かな声だった。
 怒鳴り声なんかより、よほど重い。

「……了道(おやじ)が決めたことだから、俺は引いた。雪絵さんも……俺じゃなく、お前を選んだ」
「……」
「でもな」

 三井が雄二を見る。

「条件付きとはいえ、てめぇも受け入れたんなら……もっとあの人に優しくしてやってくれても良かったじゃねぇか」

 雄二は何も言わなかった。
 ずっと一緒に暮らしてきたのだ。
 そうできたらどんなにか良かったと思わなかったわけじゃない。
 だが、どう足掻いても自分には百合香しか愛せなかったのだ。

 雪絵がそれを条件にしたというのをいいことに、雪絵のことを(かえり)みようとしなかったのはまぎれもない事実だ。
 雪絵が条件を出してでも自分を縛り付けたいくらい、愛してくれていたのは知っていた。
 知っていて、百合香との仲を邪魔されたことへの怒りを、雪絵をないがしろにすることで晴らしていたことは否定しきれない。

「……百香も泣いてたの、知らねぇわけじゃねぇだろ」

 もちろん、知らないはずがない。
 百香には、我が子としての情がある。百合香との間に出来た子だったら……と夢想してしまう程度には、愛着もあった。
 だが、名を百合香から取ってみたところで意味なんてなかった。百香は雪絵が産んだ子で、あの子の母親は雪絵なのだ。
 雪絵を傷つければ、必然的に百香も傷つく。

「……」
「お前が契約をかさに着た皺寄せを、百香(むすめ)に負わせるのは違うだろ」

 静かな声音だった。
 だからこそお前は雪絵を大切にすべきだったのだと言われているようで、胸糞が悪い。
 それとこれとは話が別だと思うのと同時に、分けて考えられる問題ではないというのも分かっていた。

「俺は……初めてお前が葛西組へ来た時から、気に入らなかった」

 それはきっと、雪絵がずっとそばにいた三井には向けなかった感情を、雄二へ向けたからだろう。
 だが、それは雄二のせいではないはずだ。

「奇遇だな。俺もお前のことは好きじゃない」
「千崎、てめぇ……!」
「三井。うだうだもっともらしい御託を並べてるが、結局のところ自分が雪絵を奪えなかった鬱憤を、俺に向けてるだけだろう?」
「――っ! この世界に身を置く人間が、了道(おや)の決定に逆らえねぇのはお前も分かってんだろ!」
「ああ、そうだな。けど……、だとしたらお前と俺は同罪だよ、三井。――お前は雪絵を、俺は百合香を選べなかった。ヘタレな男同士がここで雁首(がんくび)突き合わせてても何にもならんだろうがよ」
「……」

 相良京介は、そこを逆らったからこそ今があるんだろう。その意味で言えば、三井も雄二も相手のことをとやかく言える立場ではないのだ。

「……俺は、雪絵と別れて百合香とやり直す」
「は?」
「オヤジがそれを許可した。――三井、そのうえで……お前はどう動くんだ?」

 三井がハッとしたように雄二を見遣る。

「……百香がどうするかは分からない。けど……少なくとも雪絵は俺の手からは離れるってことだ」

 三井の眉がわずかに動いた。

「だから、お前はお前でオヤジと話つけろ」
「……」
「今度こそ逃げるな」

 低い声だった。
 その声音に嘘がないことだけは、三井にも分かったのだろう。

 二人の間で一口も手を付けられることのないままの煮付けが、静かに冷めてそこへあった――。


***


 店を出た頃には、太陽はだいぶ西の空へ傾き始めていた。
 長い影を引き摺りながら車へ戻った雄二は、シートベルトをしてエンジンを掛ける。

 だが、すぐには発進しなかった。

 三井の言葉が、妙に耳へ残っていた。
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