それぞれの幸せ
「……俺、百合香さんのこと、嫌いだったわけじゃないんです。だから……影の女としてじゃなく、ちゃんと幸せになって欲しくて」
「……」
「もちろん、カシラが百合香さんの方を……その、姐さんより愛してらしたのは分かってました。けど……姐さんとカシラにはお子さんもいらっしゃいますし……家庭壊すのは百合香さんも望んでないって俺、知ってたから……」
雄二は何も言わない。
「だから……いっそのこと、どっかへ逃がせたらってそう思ったんっすけど……」
佐山は唇を噛む。
「下関、提案したの、半分わざとです」
沈黙。
二人の間を乾いた風が吹き抜ける。
「……どういう意味だ」
低い声。
佐山は迷うように視線を伏せたあと、小さく言った。
「俺、三井のアニキからずっと聞かされてきました」
「……」
「百合香さんが、結婚してるカシラにずっと……横恋慕してるって……。けど……なんか違和感あって……それで……」
百合香を追跡できる蜘蛛の糸を残したんだろう。
雄二はそんな佐山の不器用さに小さく吐息を落とした。
「……佐山、何故その違和感を信じなかった? 横恋慕してきたのは雪絵の方だ」
「え?」
「雪絵は――俺が百合香以外愛せないことを知った上で、《《俺》》に条件付きの結婚を迫ってきたんだよ」
佐山が息を止める。
「子どもを自分との間にだけ作るって努力義務を果たしさえすりゃ、百合香と付き合うことを許す、ってな」
「……は?」
「百合香は……俺と雪絵の契約に巻き込まれただけだ」
「けど、それじゃ百合香さんは……」
「分かってる。そんなの、百合香は絶対に報われねぇ。けど……あいつはそれでもいいから、俺と一緒にいたいと言ってくれたんだ」
「……っ!」
「雪絵からは……百合香を切れなんて話は一度もされていない。――そういう契約だからな」
佐山の顔色が変わる。
理解してしまったのだ。
自分が、そんな事情を何も知らないまま、百合香を悪だと決めつけ、追い詰めたことを。
「……俺」
絞り出すような声。
「俺、百合香さんになんてことを……」
雄二は煙草へ火を点けた。
紫煙が夜の空気へ滲んでいく。
「……カシラ! 俺に今すぐ、百合香さんを探しに行かせてください!」
佐山が頭を下げる。
「責任取らしてください!」
佐山の真剣な目に、雄二は吐息交じりの煙を大きく吐き出した。
相変わらず、美味くない、苦いだけの煙だ。
「……俺、必ず百合香さんを連れ戻してきます!」
雄二の視線に、佐山がグッと拳を握ってそう言い募るのを見て、雄二は煙草を口から放した。
「……いや、連れ戻すのは無しだ。――もし見つけても、絶対に接触はすんな。それが守れるなら……許可してやる」
低い声だった。
佐山が「え?」という顔をして雄二を見つめる。
「俺が迎えに行くまで、余計なことすんな。……お前じゃ、百合香を連れ戻すのは無理だ」
その声に迷いはなかった。
百合香は、簡単に意見をひるがえすような女じゃない。
中途半端な状態で追えば、今度こそ本当に消える。
雄二は、それを知っていた。
***
佐山を送り出したあとも、しばらく雄二はその場に立ち尽くしていた。
昼の熱をまだわずかに残した風が、頬を撫でていく。
手元の煙草は、いつの間にか根元近くまで燃えていた。
短くなったそれを携帯灰皿へ押し込み、雄二は小さく息を吐く。
(……百合香、本当にいなくなったのか?)
まだ、どこか現実味がなかった。
百合香が自分の前からいなくなる。
そんなことは一度も考えたことがなかった。
どれだけ傷付けても。
どれだけ待たせても。
百合香は最後には笑って雄二を出迎えてくれる。
勝手にそう思っていた。
そうであってほしいと、甘えていた。
車へ乗り込む。
エンジンを掛けると、静かな振動が身体へ伝わってきた。
向かう先は決まっている。
百合香のマンションだった。
***
到着した頃には、空は茜色へ染まり始めていた。
昼と夜の境目みたいな曖昧な光が、街並みを赤く照らしている。
見慣れたマンションを見上げる。
何度も通った駐車場。
何度も見上げた部屋の窓。
だが――。
「……」
「もちろん、カシラが百合香さんの方を……その、姐さんより愛してらしたのは分かってました。けど……姐さんとカシラにはお子さんもいらっしゃいますし……家庭壊すのは百合香さんも望んでないって俺、知ってたから……」
雄二は何も言わない。
「だから……いっそのこと、どっかへ逃がせたらってそう思ったんっすけど……」
佐山は唇を噛む。
「下関、提案したの、半分わざとです」
沈黙。
二人の間を乾いた風が吹き抜ける。
「……どういう意味だ」
低い声。
佐山は迷うように視線を伏せたあと、小さく言った。
「俺、三井のアニキからずっと聞かされてきました」
「……」
「百合香さんが、結婚してるカシラにずっと……横恋慕してるって……。けど……なんか違和感あって……それで……」
百合香を追跡できる蜘蛛の糸を残したんだろう。
雄二はそんな佐山の不器用さに小さく吐息を落とした。
「……佐山、何故その違和感を信じなかった? 横恋慕してきたのは雪絵の方だ」
「え?」
「雪絵は――俺が百合香以外愛せないことを知った上で、《《俺》》に条件付きの結婚を迫ってきたんだよ」
佐山が息を止める。
「子どもを自分との間にだけ作るって努力義務を果たしさえすりゃ、百合香と付き合うことを許す、ってな」
「……は?」
「百合香は……俺と雪絵の契約に巻き込まれただけだ」
「けど、それじゃ百合香さんは……」
「分かってる。そんなの、百合香は絶対に報われねぇ。けど……あいつはそれでもいいから、俺と一緒にいたいと言ってくれたんだ」
「……っ!」
「雪絵からは……百合香を切れなんて話は一度もされていない。――そういう契約だからな」
佐山の顔色が変わる。
理解してしまったのだ。
自分が、そんな事情を何も知らないまま、百合香を悪だと決めつけ、追い詰めたことを。
「……俺」
絞り出すような声。
「俺、百合香さんになんてことを……」
雄二は煙草へ火を点けた。
紫煙が夜の空気へ滲んでいく。
「……カシラ! 俺に今すぐ、百合香さんを探しに行かせてください!」
佐山が頭を下げる。
「責任取らしてください!」
佐山の真剣な目に、雄二は吐息交じりの煙を大きく吐き出した。
相変わらず、美味くない、苦いだけの煙だ。
「……俺、必ず百合香さんを連れ戻してきます!」
雄二の視線に、佐山がグッと拳を握ってそう言い募るのを見て、雄二は煙草を口から放した。
「……いや、連れ戻すのは無しだ。――もし見つけても、絶対に接触はすんな。それが守れるなら……許可してやる」
低い声だった。
佐山が「え?」という顔をして雄二を見つめる。
「俺が迎えに行くまで、余計なことすんな。……お前じゃ、百合香を連れ戻すのは無理だ」
その声に迷いはなかった。
百合香は、簡単に意見をひるがえすような女じゃない。
中途半端な状態で追えば、今度こそ本当に消える。
雄二は、それを知っていた。
***
佐山を送り出したあとも、しばらく雄二はその場に立ち尽くしていた。
昼の熱をまだわずかに残した風が、頬を撫でていく。
手元の煙草は、いつの間にか根元近くまで燃えていた。
短くなったそれを携帯灰皿へ押し込み、雄二は小さく息を吐く。
(……百合香、本当にいなくなったのか?)
まだ、どこか現実味がなかった。
百合香が自分の前からいなくなる。
そんなことは一度も考えたことがなかった。
どれだけ傷付けても。
どれだけ待たせても。
百合香は最後には笑って雄二を出迎えてくれる。
勝手にそう思っていた。
そうであってほしいと、甘えていた。
車へ乗り込む。
エンジンを掛けると、静かな振動が身体へ伝わってきた。
向かう先は決まっている。
百合香のマンションだった。
***
到着した頃には、空は茜色へ染まり始めていた。
昼と夜の境目みたいな曖昧な光が、街並みを赤く照らしている。
見慣れたマンションを見上げる。
何度も通った駐車場。
何度も見上げた部屋の窓。
だが――。