それぞれの幸せ
「……」

 夕陽を反射するだけで、そこに灯りはなかった。
 百合香はもうここにはいない。
 頭では理解していた。

 だが、こうして現実を目の当たりにするのとでは、話が別だった。

 胸の奥が重く沈む。

 雄二は無言のまま車を降りた。
 オートロックを解除し、エレベーターへ乗り込む。

 階数表示がゆっくり上がっていく。
 その時間すら、妙に長く感じられた。
 やがて到着を告げる電子音が鳴る。

 降り立った廊下は静かだった。

 百合香の部屋の前へ立つ。
 チャイムを押す。
 応答はない。
 もう一度押す。
 やはり反応はなかった。

 雄二はポケットから合鍵を取り出した。
 鍵穴へ差し込み、回す。
 小さな音を立てて扉が開いた。

「……百合香」

 呼び掛けながら中へ入る。

 返事はない。
 室内は不気味なくらいひっそりと静まり返っていた。

 だが、言いようのない違和感が胸を掠める。

 空気が違う。
 生活感は残っている。
 家具もある。
 食器もある。

 それなのに――そこに百合香が〝いる〟気配だけが綺麗に消えていた。

「……」

 雄二はゆっくり室内を見回す。
 そして……視線がテーブルの上で止まった。

 薄桃色のチューリップ。
 雄二が相良へ〝花嫁のブーケは九本だ〟と助言したことを思い出す。
 きっとあの男は、その通りにしたのだろう。

 花弁は少しずつ開き始めていた。
 このままでは、そう遠くないうちに枯れる。
 雄二は無意識に手を伸ばし、その一本へ触れた。

 百合香はこの幸せの象徴みたいなブーケを置いていった。
 だが、自分は捨てる気になれなかった。
(残すか……)
 ふと、そんな考えが頭をよぎる。

 昔、取引先との雑談で聞いたことがあった。
 大切な花束を特殊加工し、一生物として保存する職人がいるのだと。
 聞いた時には馬鹿げている、と思った。
 花など、枯れるから意味がある。
 そう思っていた。
 だが、今は違う。

 百合香が花嫁からの〝次は貴女の番〟という祝福とともに受け取った花だった。
 彼女は、それすら置いていくつもりなのだろう。

(……させるかよ)

 だけど雄二は、百合香との未来を失うつもりはない。

 花束のそばには二人で撮った写真、ネックレス、時計、指輪……。
 雄二に関するもの、雄二が百合香へ贈ったものばかりが、まるで〝幸せ〟ともどもここへ置き去りにしたいみたいに整然と並べられていた。

「……は」
 乾いた笑いが漏れた。
(百合香らしいな)
 最後まで実に律儀だ。

 雄二はゆっくり部屋の奥へ足を向けた。

 寝室。
 洗面所。
 クローゼット。

 彼女が好んで着ていた服がことごとくなくなっている。

 旅行の量じゃない。
 家出でもない。
 だが、必要最低限のものだけを掻っ攫っていったような……そんな気配が漂っていた。

 百合香は、本気で出て行ったのだ。

「……しろ」

 百合香と一緒に可愛がっていた猫の名を、思わず呟く。
 彼の遺骨が祭られていた棚の上へ視線を向ける。
 だが、当然のようにそこへあったはずの骨壺はなくなっていた。
 胸の奥が大きく脈打った。

 ――しろを連れて行った。

 それだけで分かる。
 百合香はもう、ここへは戻るつもりがないのだと。

 雄二はこの部屋を(おとな)うたびに座っていたソファへ腰を下ろした。

「百合香……」
(お前は……俺との結婚を望んでいなかったのか?)
 そんなわけがないことは、雄二が一番知っていた。
 ただ、雄二の状況が、百合香にそれを言わせなかっただけ。

 今頃は、ここで百合香を抱き締めていたはずだった。
 雪絵とのこと、百香とのこと……。
 そういう諸々を清算してくると告げて、ふたりで前へ進もうと話すつもりだった。

 だが、遅かった。

 全部。
 何もかもが遅すぎた。

 雄二は顔を覆うように手を当てる。

 今すぐ下関へ行きたい。
 今すぐ愛する百合香を見つけ出し、有無を言わせず腕の中へ閉じ込めたい。
 そうして、こんなにも待たせてしまったことを、彼女が納得するまで謝りたかった。

 だが――。

「……まだだ」

 低く呟く。

 雪絵のことも、百香のことも、まだ片が付いていない。

 それらを先に終わらせなければならない。
 そうしてからでないと、百合香を迎えにいくことなんて出来ないと思った。

 今度こそ、ちゃんと向き合うと決めたのだから。

 雄二は静かに目を閉じた。

 そして……テーブルの上に残されたチューリップへ再度視線を向ける。

 今の自分には、まだ彼女を連れ戻しに行く資格がない。

 ――まだ、追えない。
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