それぞれの幸せ
その時、不意に薄桃色のチューリップが脳裏をよぎる。
置いてきた花束。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
本当は嬉しかった。
あの花を受け取った時、ほんの一瞬だけ、自分にも芽生のような幸せな未来があるのかもしれないと夢想してしまった。
雄二の隣で笑う未来。
祝福される未来。
当たり前のように愛する人と手を繋いで歩ける未来。
けれど、それは自分には叶わない幻だとすぐに気が付いた。
百合香が隣にいてほしい人には、帰るべき場所がある。
守らなければならない家族がいる。
だから、終わらせた。
自分のワガママで、彼の奥さんや、なんの罪もない雄二の娘が傷つくことを思うと、どうしても夢を見続けるわけにはいかなかった。
置いてきた花束は、そのための区切りだったはずなのに――。
百合香は唇を噛んだ。
「……芽生ちゃん、ごめんね」
小さく呟いた声が、誰もいない部屋に落ちる。
百合香は目を閉じる。
涙は、やはり出なかった。
ただ、胸の奥だけが鈍く痛んでいた。
しばらくして、百合香はゆっくりと立ち上がると、窓際へ歩み寄り、カーテンを少し開ける。
外はもう、夜へと変わり始めていた。
知らない街の灯りが、ぽつぽつと瞬いている。
遠くに海があるはずだった。
佐山が言っていた。
海が綺麗だと。
関門海峡の夜景も綺麗だと。
(明日、少し歩いてみようかな)
そう思った自分に、百合香は少し驚いた。
観光をする余裕なんてないはずなのに。
そんなことを考えている場合ではないはずなのに。
それでも、明日は外へ出なければならない。
仕事を探す。
不動産屋を探す。
生活に必要なものを買う。
(あ。携帯ショップにも行かなくちゃ)
今の携帯を使い続けるのは良くないと分かっていた。
雄二との繋がりを断つと決めたのなら、一刻も早くこの番号は手放すべきだ。
けれど、今すぐには出来ない。
見知らぬ街のこと。携帯ショップを探すのにも、スマートフォンは必要だった。
(明日の朝、ちょっとだけ電源を入れて……)
そうしないと何も調べられない。
でも、電源を入れたら雄二に見つかってしまうかもしれない。
(ホント、何やってるんだろ……。矛盾しまくりね……)
そういう揺れを、自分でも情けないと思った。
でも、何もしないことには何も始まらない。
「大丈夫。きっと大丈夫……」
何が大丈夫なのか、わからないまま、百合香は自分に言い聞かせるみたいにそう呟いていた。
街へ出るついでに、佐山が言っていた市場を少しだけ見てみてもいいかもしれない。
唐戸市場。
南風泊市場。
どちらがどんな場所なのか、まだ百合香にはよく分からない。
けれど、改札を抜けた先の土産物売り場で見かけた、丸々としたふぐのマスコットを思い出す。
大きな〝福〟の文字を抱えた、愛嬌のある姿。
思わず「可愛い」と思った、あのふくだるま。
福。
そんなものが、本当に自分のところへ来るのかは分からない。
それでも。
ほんの少しだけ、前を向いてみてもいいのかもしれない。
ホテルの窓の向こうには、見知らぬ夜景が広がっている。
不安はある。
寂しさもある。
胸の痛みも、まだ消えない。
けれど。
「……明日から、頑張ろう」
百合香は空元気を振り絞るみたいにそうつぶやいた。
そうして、頑張ってほんの少しだけ微笑んでみる。
この街で。
知らない街で。
もう一度、自分の足で立ってみよう。
そう、しなければいけない。
けれど、百合香はこのときまだ知らなかった。
自分が置いてきた薄桃色のチューリップを、雄二がそのままにはしなかったことを。
雄二が、百合香のことを諦めていないことを。
そして――。佐山が今、下関へ向かって来ていることを。
百合香だけが、まだ何も知らなかった。
置いてきた花束。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
本当は嬉しかった。
あの花を受け取った時、ほんの一瞬だけ、自分にも芽生のような幸せな未来があるのかもしれないと夢想してしまった。
雄二の隣で笑う未来。
祝福される未来。
当たり前のように愛する人と手を繋いで歩ける未来。
けれど、それは自分には叶わない幻だとすぐに気が付いた。
百合香が隣にいてほしい人には、帰るべき場所がある。
守らなければならない家族がいる。
だから、終わらせた。
自分のワガママで、彼の奥さんや、なんの罪もない雄二の娘が傷つくことを思うと、どうしても夢を見続けるわけにはいかなかった。
置いてきた花束は、そのための区切りだったはずなのに――。
百合香は唇を噛んだ。
「……芽生ちゃん、ごめんね」
小さく呟いた声が、誰もいない部屋に落ちる。
百合香は目を閉じる。
涙は、やはり出なかった。
ただ、胸の奥だけが鈍く痛んでいた。
しばらくして、百合香はゆっくりと立ち上がると、窓際へ歩み寄り、カーテンを少し開ける。
外はもう、夜へと変わり始めていた。
知らない街の灯りが、ぽつぽつと瞬いている。
遠くに海があるはずだった。
佐山が言っていた。
海が綺麗だと。
関門海峡の夜景も綺麗だと。
(明日、少し歩いてみようかな)
そう思った自分に、百合香は少し驚いた。
観光をする余裕なんてないはずなのに。
そんなことを考えている場合ではないはずなのに。
それでも、明日は外へ出なければならない。
仕事を探す。
不動産屋を探す。
生活に必要なものを買う。
(あ。携帯ショップにも行かなくちゃ)
今の携帯を使い続けるのは良くないと分かっていた。
雄二との繋がりを断つと決めたのなら、一刻も早くこの番号は手放すべきだ。
けれど、今すぐには出来ない。
見知らぬ街のこと。携帯ショップを探すのにも、スマートフォンは必要だった。
(明日の朝、ちょっとだけ電源を入れて……)
そうしないと何も調べられない。
でも、電源を入れたら雄二に見つかってしまうかもしれない。
(ホント、何やってるんだろ……。矛盾しまくりね……)
そういう揺れを、自分でも情けないと思った。
でも、何もしないことには何も始まらない。
「大丈夫。きっと大丈夫……」
何が大丈夫なのか、わからないまま、百合香は自分に言い聞かせるみたいにそう呟いていた。
街へ出るついでに、佐山が言っていた市場を少しだけ見てみてもいいかもしれない。
唐戸市場。
南風泊市場。
どちらがどんな場所なのか、まだ百合香にはよく分からない。
けれど、改札を抜けた先の土産物売り場で見かけた、丸々としたふぐのマスコットを思い出す。
大きな〝福〟の文字を抱えた、愛嬌のある姿。
思わず「可愛い」と思った、あのふくだるま。
福。
そんなものが、本当に自分のところへ来るのかは分からない。
それでも。
ほんの少しだけ、前を向いてみてもいいのかもしれない。
ホテルの窓の向こうには、見知らぬ夜景が広がっている。
不安はある。
寂しさもある。
胸の痛みも、まだ消えない。
けれど。
「……明日から、頑張ろう」
百合香は空元気を振り絞るみたいにそうつぶやいた。
そうして、頑張ってほんの少しだけ微笑んでみる。
この街で。
知らない街で。
もう一度、自分の足で立ってみよう。
そう、しなければいけない。
けれど、百合香はこのときまだ知らなかった。
自分が置いてきた薄桃色のチューリップを、雄二がそのままにはしなかったことを。
雄二が、百合香のことを諦めていないことを。
そして――。佐山が今、下関へ向かって来ていることを。
百合香だけが、まだ何も知らなかった。