それぞれの幸せ
第3節 千崎雄二『今はまだ、知らせない』
雪絵が持って来た離婚届へ署名捺印を終えた雄二は、静かにペンを置いた。
紙の上には、確かに二人の名前が並んでいる。
それだけだった。
雪絵がいつも通り感情の起伏に乏しい目で、雄二を見つめている。
泣きすがることもなければ、こういう結論に至った経緯を説明したり、ましてや雄二を責めたりする言葉すらない。
ただ、夫婦という形が終わったことを静かに受け入れているように見えた。
(こんな簡単に手放せることだったのか……)
だとしたら、自分は今まで何に囚われていたというのだろう。
雄二は雪絵のあまりにも淡々とした様子に苛立ちを覚える。
別に泣き縋って欲しかったわけじゃない。
だが、愛する百合香と一緒にいられなかった原因のひとつは、目の前にいる女のせいでもあった。
だから、こんなに簡単に手放せるような想いなら、最初から手を伸ばして欲しくなかったと思ってしまう。
(まぁ、受け入れた俺も同罪か……)
事情はどうあれ、雪絵の出した条件を吞んだのは他ならぬ雄二自身だ。
そのことは紛れもない事実だった。
雄二は小さく吐息を落とすと、諸々の感情を押し流したいみたいに煙草へ火をつけた。
紫煙がゆっくりと天井へ昇る。
無意識に視線が雪絵から逸れて窓外へ流れる。
百合香が相手なら、話の内容如何に関わらず、一瞬たりとも相手から視線を逸らしたいなんて思わないはずだ。
そう思えば思うほど、最初からうまくいくはずのない婚姻関係だったのだと実感した。
視界の端、向かい側に座る雪絵は相変わらず何も言わない。
だからと言って立ち去るでもなくその場に居続ける彼女の表情からは、何を考えているのかさっぱり分からなかった。
だが、雄二はそんな雪絵の内情なんて分かろうとも思わない。
もう、その必要はないのだから。
ややして、沈黙に耐えかねたのか、雪絵が離婚届へ視線を落としたまま口を開いた。
「あの……雄二さん、百香には……」
今まで感情の機微なんて感じられなかった雪絵の表情に、不意に不安げな影が揺れる。
その気持ちを表すみたいにか細く紡がれた言葉に、雄二は視線を雪絵へ戻した。
(この期に及んで、まだそこか)
そんな感情が胸の奥を掠める。
「――百香には、話すつもりはない」
それが分かっていてそう告げるのは癪に障ったが、これは雪絵のためじゃない。
だが、雄二の心を知ってか知らずか、雪絵は目に見えて安堵した。
その様子を見ても、雄二の心は少しも軽くならなかった。
「断っておくが、了道から頼まれたからそうするわけでもない……」
「……え?」
雪絵が顔を上げる。
分かってはいたが、その反応だけで雪絵がこの件について了道へ相談していたのだと察せられた。
胸の奥に鈍い不快感が広がる。
「無論、お前のためでもない」
「……それは、どういう……」
紙の上には、確かに二人の名前が並んでいる。
それだけだった。
雪絵がいつも通り感情の起伏に乏しい目で、雄二を見つめている。
泣きすがることもなければ、こういう結論に至った経緯を説明したり、ましてや雄二を責めたりする言葉すらない。
ただ、夫婦という形が終わったことを静かに受け入れているように見えた。
(こんな簡単に手放せることだったのか……)
だとしたら、自分は今まで何に囚われていたというのだろう。
雄二は雪絵のあまりにも淡々とした様子に苛立ちを覚える。
別に泣き縋って欲しかったわけじゃない。
だが、愛する百合香と一緒にいられなかった原因のひとつは、目の前にいる女のせいでもあった。
だから、こんなに簡単に手放せるような想いなら、最初から手を伸ばして欲しくなかったと思ってしまう。
(まぁ、受け入れた俺も同罪か……)
事情はどうあれ、雪絵の出した条件を吞んだのは他ならぬ雄二自身だ。
そのことは紛れもない事実だった。
雄二は小さく吐息を落とすと、諸々の感情を押し流したいみたいに煙草へ火をつけた。
紫煙がゆっくりと天井へ昇る。
無意識に視線が雪絵から逸れて窓外へ流れる。
百合香が相手なら、話の内容如何に関わらず、一瞬たりとも相手から視線を逸らしたいなんて思わないはずだ。
そう思えば思うほど、最初からうまくいくはずのない婚姻関係だったのだと実感した。
視界の端、向かい側に座る雪絵は相変わらず何も言わない。
だからと言って立ち去るでもなくその場に居続ける彼女の表情からは、何を考えているのかさっぱり分からなかった。
だが、雄二はそんな雪絵の内情なんて分かろうとも思わない。
もう、その必要はないのだから。
ややして、沈黙に耐えかねたのか、雪絵が離婚届へ視線を落としたまま口を開いた。
「あの……雄二さん、百香には……」
今まで感情の機微なんて感じられなかった雪絵の表情に、不意に不安げな影が揺れる。
その気持ちを表すみたいにか細く紡がれた言葉に、雄二は視線を雪絵へ戻した。
(この期に及んで、まだそこか)
そんな感情が胸の奥を掠める。
「――百香には、話すつもりはない」
それが分かっていてそう告げるのは癪に障ったが、これは雪絵のためじゃない。
だが、雄二の心を知ってか知らずか、雪絵は目に見えて安堵した。
その様子を見ても、雄二の心は少しも軽くならなかった。
「断っておくが、了道から頼まれたからそうするわけでもない……」
「……え?」
雪絵が顔を上げる。
分かってはいたが、その反応だけで雪絵がこの件について了道へ相談していたのだと察せられた。
胸の奥に鈍い不快感が広がる。
「無論、お前のためでもない」
「……それは、どういう……」