それぞれの幸せ
雪絵の声が揺れる。
雄二は短く煙を吐いた。
「本当に分からないのか?」
低い声だった。
「結婚の時の条件。出したのはお前だ。――忘れたとは言わせねぇ。それを今さら反故にするような理由を並べ立てて、離婚の理由は俺の浮気だと?」
雪絵が言葉を失う。
「百香はさぞかし俺のことを憎んだだろうな。それを俺がお前のために被ってやる理由なんてないことぐらい、少し考えりゃ分かるだろう」
気が付けば普段は〝私〟で通していた自称が、〝俺〟と変化するほどに口調が崩れていた。
だが、今さら取り繕う気もなかった。
「正妻はお前だけ。子どもを持つのもお前とだけ。俺は子作りの義務を果たす。――その代わり、愛人との関係は認める。そういう話だったよな?」
雪絵が目を伏せる。
忘れていたわけではないのだろう。
あの日、自分で提示した条件だ。
「本当のところ、俺と別れたい理由はそれじゃねぇだろ」
雪絵の指先が机の上で強張る。
「さしずめ、百香の名前の由来を知ったとか……そんなところだろ」
雪絵が鋭く雄二を見た。
図星だったらしい。
そのことについて悪いと思っていないわけではない。
だが、それ以上に百香への後ろめたさの方が強かった。
「……なら、本当の理由は墓場まで持って行け」
「……」
「言ったところで百香を傷つけるだけだ」
雄二は静かに言った。
「俺は百香の心を傷つけないために、お前の芝居へ乗ることにした。――それだけだ」
百香に必要なのは、親同士の歪な契約を知ることじゃない。
実際のところ自分たちの間に愛はなかったとしても、百香の中では父と母に愛されて育った娘でいて欲しかった。
それだけは守ってやりたかった。
「雄二さん、私が……あなたに愛人がいることに微塵も嫉妬心を抱かなかったとお思いですか?」
ややして雪絵がぽつりと呟く。
雄二は静かに雪絵を見た。
「……誕生日を祝わなかったのが、そんなに不満だったか」
「……それも、理由のひとつです」
雪絵の目に、かつて向けられていた恋情の名残が微かに浮かぶ。
だが、それを受け止める気にはなれなかった。
「そんなの最初から期待してなかったはずだろ。あんな条件を突き付けて俺を縛ったんだ。お前にも分かっていたはずだ」
そこで一拍置いて、噛んで含めるように続ける。
「俺は百合香しか愛せない」
雪絵が俯く。
「それを承知の上で結婚を強いたのはお前だろう?」
――何を今さら。
そんな思いを込めて言葉を続ける。
「お前には悪いが、俺は百合香以外の女を愛したことはない。――今までも、これからも、だ」
雪絵は何も答えなかった。
ただ静かに俯いている。
その沈黙を見つめながら、雄二は最後にひとつだけ言葉を続けた。
「それと……」
雪絵が顔を上げる。
雄二は短く煙を吐いた。
「本当に分からないのか?」
低い声だった。
「結婚の時の条件。出したのはお前だ。――忘れたとは言わせねぇ。それを今さら反故にするような理由を並べ立てて、離婚の理由は俺の浮気だと?」
雪絵が言葉を失う。
「百香はさぞかし俺のことを憎んだだろうな。それを俺がお前のために被ってやる理由なんてないことぐらい、少し考えりゃ分かるだろう」
気が付けば普段は〝私〟で通していた自称が、〝俺〟と変化するほどに口調が崩れていた。
だが、今さら取り繕う気もなかった。
「正妻はお前だけ。子どもを持つのもお前とだけ。俺は子作りの義務を果たす。――その代わり、愛人との関係は認める。そういう話だったよな?」
雪絵が目を伏せる。
忘れていたわけではないのだろう。
あの日、自分で提示した条件だ。
「本当のところ、俺と別れたい理由はそれじゃねぇだろ」
雪絵の指先が机の上で強張る。
「さしずめ、百香の名前の由来を知ったとか……そんなところだろ」
雪絵が鋭く雄二を見た。
図星だったらしい。
そのことについて悪いと思っていないわけではない。
だが、それ以上に百香への後ろめたさの方が強かった。
「……なら、本当の理由は墓場まで持って行け」
「……」
「言ったところで百香を傷つけるだけだ」
雄二は静かに言った。
「俺は百香の心を傷つけないために、お前の芝居へ乗ることにした。――それだけだ」
百香に必要なのは、親同士の歪な契約を知ることじゃない。
実際のところ自分たちの間に愛はなかったとしても、百香の中では父と母に愛されて育った娘でいて欲しかった。
それだけは守ってやりたかった。
「雄二さん、私が……あなたに愛人がいることに微塵も嫉妬心を抱かなかったとお思いですか?」
ややして雪絵がぽつりと呟く。
雄二は静かに雪絵を見た。
「……誕生日を祝わなかったのが、そんなに不満だったか」
「……それも、理由のひとつです」
雪絵の目に、かつて向けられていた恋情の名残が微かに浮かぶ。
だが、それを受け止める気にはなれなかった。
「そんなの最初から期待してなかったはずだろ。あんな条件を突き付けて俺を縛ったんだ。お前にも分かっていたはずだ」
そこで一拍置いて、噛んで含めるように続ける。
「俺は百合香しか愛せない」
雪絵が俯く。
「それを承知の上で結婚を強いたのはお前だろう?」
――何を今さら。
そんな思いを込めて言葉を続ける。
「お前には悪いが、俺は百合香以外の女を愛したことはない。――今までも、これからも、だ」
雪絵は何も答えなかった。
ただ静かに俯いている。
その沈黙を見つめながら、雄二は最後にひとつだけ言葉を続けた。
「それと……」
雪絵が顔を上げる。


