それぞれの幸せ
「……雄二さん」
おずおずと呼び掛けられ、雄二が窓から雪絵へ視線を戻すと、 雪絵がテーブル上の離婚届をスッとこちらへ差し出してくる。
「これ……」
雪絵は少しだけ視線を伏せた。
「私が持っていたら、決心が鈍ってしまいそうなので……」
か細い声だった。
雄二は何も言わず、差し出された離婚届を受け取る。
紙一枚。
それだけの重さしかないはずなのに、妙にずっしりと感じられた。
あれだけのことを言い合っても尚、雪絵は雄二との離婚に躊躇いを覚えるという。
そのことが、雄二には不思議でたまらなかった。
(結局のところ、俺は雪絵のことを何も分かっていなかったんだな)
表情に乏しい女だった。雄二には常に突飛に感じられた様々な言動も、雪絵なりに熟考した末のものだったのかもしれない。
だが、すべて今更だ。
雄二には雪絵とやり直す気はさらさらなかったし、彼女の気持ちを慮るのは自分の役目ではない。
今日雪絵とここで会うことは三井には伝えてある。
このあと三井がどう動くか、またそれに雪絵がどう答えるかは雄二のあずかり知らぬ問題だ。
この紙切れを役所に提出すれば、雪絵との縁は切れるのだから。
正直な話、雄二は雪絵がこの書類を託してくれて良かったと思った。いつ出されるか分からない離婚届のことに思いを馳せなくて済むからだ。
「……分かった。俺が出しておく」
短く答える。
雪絵もそれ以上は何も言わなかった。
雄二は離婚届を懐へ仕舞うと、伝票へ手を伸ばした。
「雄二さん」
立ち上がったと同時、不意に呼び止められる。
「このあと、……百香に会うんですよね?」
雪絵の瞳が不安げに揺れる。
「ああ」
「あのっ、あの子には……」
「……さっきも言ったはずだ。《《今は》》俺が悪者でいい」
それだけ告げて雪絵から視線を逸らすと雄二はレジに向かって歩き出した。
もう雪絵のことを振り返る気はない。
今の雄二にとって大事なのは百香だ。
了道の妻・佳代が、百香を連れて待ってくれているはずのパーラーへ向かうため、雄二は喫茶店を後にした。
***
店内には静かな音楽が流れていた。
窓際の席には、雪絵が一人取り残されている。
テーブルの上には飲みかけのコーヒーが二つと、灰皿上でもみ消された煙草がひとつ。
持参した離婚届も、店員が置いていった伝票も、もうない。
先ほどまで対面に腰掛けていた、元夫になろうとしている男――千崎雄二が持って行ったからだ。
雪絵はしばらく動かなかった。
視線はただ、空になった向かいの席へ向けられている。
どれほど時間が経っただろうか。
不意に、その席へ影が差した。
「雪絵さん」
呼びかけられた声に、雪絵が顔を上げる。
そこには、三井が立っていた。
***
佳代が百香と一緒にいるパーラーは、喫茶店から歩いて十分ほどの場所にあった。
昔ながらの店構えはいかにも佳代が好きそうな雰囲気で、ガラス張りのショーケースに色とりどりのケーキが並んでいた。店内には甘い香りが漂っている。
おずおずと呼び掛けられ、雄二が窓から雪絵へ視線を戻すと、 雪絵がテーブル上の離婚届をスッとこちらへ差し出してくる。
「これ……」
雪絵は少しだけ視線を伏せた。
「私が持っていたら、決心が鈍ってしまいそうなので……」
か細い声だった。
雄二は何も言わず、差し出された離婚届を受け取る。
紙一枚。
それだけの重さしかないはずなのに、妙にずっしりと感じられた。
あれだけのことを言い合っても尚、雪絵は雄二との離婚に躊躇いを覚えるという。
そのことが、雄二には不思議でたまらなかった。
(結局のところ、俺は雪絵のことを何も分かっていなかったんだな)
表情に乏しい女だった。雄二には常に突飛に感じられた様々な言動も、雪絵なりに熟考した末のものだったのかもしれない。
だが、すべて今更だ。
雄二には雪絵とやり直す気はさらさらなかったし、彼女の気持ちを慮るのは自分の役目ではない。
今日雪絵とここで会うことは三井には伝えてある。
このあと三井がどう動くか、またそれに雪絵がどう答えるかは雄二のあずかり知らぬ問題だ。
この紙切れを役所に提出すれば、雪絵との縁は切れるのだから。
正直な話、雄二は雪絵がこの書類を託してくれて良かったと思った。いつ出されるか分からない離婚届のことに思いを馳せなくて済むからだ。
「……分かった。俺が出しておく」
短く答える。
雪絵もそれ以上は何も言わなかった。
雄二は離婚届を懐へ仕舞うと、伝票へ手を伸ばした。
「雄二さん」
立ち上がったと同時、不意に呼び止められる。
「このあと、……百香に会うんですよね?」
雪絵の瞳が不安げに揺れる。
「ああ」
「あのっ、あの子には……」
「……さっきも言ったはずだ。《《今は》》俺が悪者でいい」
それだけ告げて雪絵から視線を逸らすと雄二はレジに向かって歩き出した。
もう雪絵のことを振り返る気はない。
今の雄二にとって大事なのは百香だ。
了道の妻・佳代が、百香を連れて待ってくれているはずのパーラーへ向かうため、雄二は喫茶店を後にした。
***
店内には静かな音楽が流れていた。
窓際の席には、雪絵が一人取り残されている。
テーブルの上には飲みかけのコーヒーが二つと、灰皿上でもみ消された煙草がひとつ。
持参した離婚届も、店員が置いていった伝票も、もうない。
先ほどまで対面に腰掛けていた、元夫になろうとしている男――千崎雄二が持って行ったからだ。
雪絵はしばらく動かなかった。
視線はただ、空になった向かいの席へ向けられている。
どれほど時間が経っただろうか。
不意に、その席へ影が差した。
「雪絵さん」
呼びかけられた声に、雪絵が顔を上げる。
そこには、三井が立っていた。
***
佳代が百香と一緒にいるパーラーは、喫茶店から歩いて十分ほどの場所にあった。
昔ながらの店構えはいかにも佳代が好きそうな雰囲気で、ガラス張りのショーケースに色とりどりのケーキが並んでいた。店内には甘い香りが漂っている。