それぞれの幸せ

第4節 桐生百合香『新しい私』

 翌朝。
 百合香はベッドの宮棚へ備え付けられたデジタル時計が鳴るよりも早く目を覚ました。

 午前六時を少し過ぎたばかり。

 昨夜は何度も目が覚めてしまい、ほとんど眠れた気がしなかった。
 ぼんやりと天井を見つめたあと、ゆっくり身体を起こす。

 小さなライティングテーブルの上へ置いたしろの遺骨に「おはよう、しろ」と声を掛けてから、窓辺へ向かった。

 カーテンを開けると、窓の向こうには見知らぬ街並みが広がっていた。

 昨日辿り着いたばかりの下関。
 朝の光を浴びた街は静かで、遠くには海峡メッセと呼ばれる高い塔。その向こうに青い海がきらきらと輝いていた。

(今日から……本当に一人なんだ)

 そう思うと胸が少しだけ苦しくなった。
 それでも、立ち止まってはいられない。

 百合香は洗面所で身支度を整えると、小さく深呼吸をして鞄の中へ手を伸ばす。

 指先が触れたのは、雄二から渡された携帯電話だった。

 しばらく見つめる。
 昨夕、一度だけ電源を入れたら、通知が怒涛のように流れ込んできた。
 それを見るのが怖くて、電源を切って鞄の奥底へ仕舞い込んだのだ。

(……ちょっとだけ)

 そう自分に言い聞かせて、電源ボタンを長押しすると、画面が明るく灯ってメーカー名が表示された。

 起動画面が終われば、またしても新たな通知が流れ込んでくる。

 着信。
 留守番電話。
 ショートメッセージ。
 見覚えのあるアプリの通知。

 アイコンへ重なるように並ぶ、赤丸で囲まれた数字の多さに、百合香は小さく息を詰めた。

(……見ない)

 見てしまえば、きっと迷う。
 今はまだ、それを見て気丈に振るまえる気がしなかった。

 百合香は一度深呼吸をすると、通知欄には一切触れず、検索画面を開いた。

DOCONO(ドコノ)ショップ』

 雄二に持たされている携帯のキャリアを入力して、現在地から検索すると、地図の上へいくつかの店舗が表示される。

(十時開店……)

 当たり前だが、まだ開店時間までにはだいぶ間がある。

 どうしようかと画面を眺めていると、近くの『唐戸市場』というランドマークが目に入った。

(市場なら、時間をつぶせるかな)

 唐戸市場を検索してみると、平日なら早朝五時から営業しているらしい。
 写真には新鮮な魚介や寿司が並び、多くの人で賑わう市場が写っていた。

 試しに佐山が教えてくれた『南風泊市場(はえどまりしじょう)』も検索してみたけれど、こちらは現在地からは結構遠いらしい。
 DOCONOショップへ行かねばならないことも思えば、唐戸市場へ行く方がよさそうだ。

(少しだけ、行ってみようかな)

 知らない街だからこそ、歩いてみたい。

 そう思えた。

 百合香は市場までの道順だけ確認すると、すぐに携帯の電源を落とした。

 画面が暗くなる。
 通知は結局、一つも開かなかった。

 百合香はホテルの朝食を済ませると、フロントで二泊延長したいと申し出た。どのくらいで新しい仕事と部屋が見つけられるか分からない。
 でも、あまりに長く延長してしまうと、甘えが出てしまう気がした。

「しろ、美味しそうなお魚、お土産に買ってくるね」

 時計の針が七時半を回った頃、百合香は部屋を出てフロントでタクシーを呼んでもらい、小さな荷物だけを持ってホテルをあとにした。

 まずは、唐戸市場へ向かうために――。
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