それぞれの幸せ
 こうして百合香を出迎えている今も、暗闇に慣れた目だからだろうか。明かりをつけないままでいる。ここで下手に明かりを(とも)せば、誘蛾灯(ゆうがとう)のように〝良くない害虫(やから)〟を引き寄せそうで尻込みした結果でもある。

「真っ暗だったから……留守かと思った」
「ああ、すまん……。ちょっとな」
 柄の良くない借金取りが(ここ)まで押しかけてきているだなんて百合香に話せば、なんだか彼女を巻き込んでしまう気がして……つい言葉を濁してしまった雄二だ。
「雄ちゃんの携帯も、実家(ここ)の宅電も鳴らしたんだよ? けど……どっちも全然応答ないし……私、気がついたら来ちゃってた。邪魔にしかならないって分かってたのに……ごめんね」

 百合香の話では、彼女の実家――桐生家(きりゅうけ)から『千崎さんの家の方で良くないことがあったらしい』と電話が掛かってきたそうだ。
 雄二と百合香が懇意にしていることは、二人が幼い頃から双方のことを知る百合香の両親もよく知っていた。
 桐生家と千崎家は同じ町内会。いわゆる〝味噌汁の冷めない距離〟というやつだ。
 救急車が来たり警察が来たり……と、あれだけ派手な動きがあれば、近所の口に戸が立てられないことは火を見るよりも明らかだった。
「あの……それでね、雄ちゃん……」
 きっと百合香は何があったのか、大体のところは把握しているんだろう。彼女にしては珍しく所在なげに揺れる視線からそのことを悟った雄二だ。

「百合香も何となく聞いてるんだろう? 《《親父》》が……工場ん中で自殺したんだ」
 雄二は百合香の前でだけ、虚勢を張るように普段は〝父さん・母さん〟と呼ぶ両親のことを〝親父・お袋〟と称していた。その癖がこんな時にも出てしまうんだな……とぼんやり思ってから、可笑しくもないのに笑ってしまいそうになる。
 眼鏡を外してこめかみを揉んだと同時、百合香がギュッとしがみついてきた。雄二に回された百合香の腕には、ほんのわずかに震えが混じっていた。それでも、その震えごと包み込むように、懸命に力を込めてくる。
「雄ちゃん、しんどい時はちゃんとそう言って? 私の前では頑張らなくていいんだよ?」
 百合香の赤くなった目元が、背面からの明かりでぼんやりと照らされる。
「……ああ、そうだな」
 後ろに母がいることも忘れたように吐息を落とせば、百合香が片腕を緩めてそっと雄二の目元へ触れてくる。それで気が付いた。雄二は知らぬ間に涙を流していたのだ。
「雄ちゃん、しんどかったね」
 百合香が雄二の胸に額をこすりつけるようにして涙をこぼす。まるで雄二が思い切り泣けない分を、百合香が肩代わりしてくれているみたいだった。

 八重子がふらりと立ち上がり、「百合香ちゃん……」と掠れた声を出す。
「急にごめんなさい……どうしても二人の顔が見たくて」
 そう言って玄関に入った百合香は、泣き濡れた顔を隠さないまま、八重子に深々と(こうべ)を垂れる。
「おじちゃんは……」
 玄関から直に見通せる居間には、幸太郎の遺体が安置されている気配はなかった。
 そればかりか、家の中に線香の香りすらしていないことに、百合香はここへ足を踏み入れた時から気が付いていた。
「……すまんな、百合香。せっかく来てくれたのに……親父、まだ帰ってきてないんだ」
 雄二の、絞り出すような低い声が部屋に落ちる。
 八重子はうつむいたまま、何も言わなかった。
 雄二はやっとのことでそれだけを告げると、グッと拳を握りしめたままうつむいてしまう。

 そのときだった。
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