それぞれの幸せ

第5節 千崎雄二『迎え』

 百合香のいない部屋は、ひどく静かだった。

 ほとんど眠れないまま迎えた朝。

 昨夜雄二は『雄相会(ゆうそうかい)』事務所で数時間、身体を横にしただけだった。

 雪絵や百香(ももか)と暮らした家へ戻ることはしなかった。
 あの家は葛西組(かさいぐみ)組長・葛西(かさい)了道(りょうどう)が雪絵のために用意した家だからだ。
 離婚はまだ成立していなかったが、もう自分の帰る場所ではないことだけは分かっていた。

 薄く差し込む朝の光の中、雄二はしばらく玄関先へ立ち尽くしていた。

 昨夜、一度入った部屋だ。
 百合香がいないことも知っている。

 それでも、中へ足を踏み入れるまでに少し時間が必要だった。

 静かに靴を脱ぎ、部屋へ入る。
 昨日と何一つ変わらない。

 整えられたベッド。
 テーブルへ並べられた思い出の品。

 だが、そこにあったチューリップのブーケだけは消えていた。
(絶対に取り戻す)
 百合香が芽生から受け取った幸せのバトンを、ここで終わらせるつもりはなかった。

 持ち込んだ先の業者の話では、ボトルフラワーの完成までには、八か月間ほど要するらしい。
 迎えに行く日には到底間に合わないが、それでも構わないと思った。
 それを頼むこと自体が、八か月後も百合香の隣にいるという、自分自身への約束になる。

 小さく吐息を落としたと同時、昨日は気にも留めていなかった食器棚へふと視線が吸い寄せられた。
(あれは……)
 しろの器が静かに仕舞われていた。

 雄二はそれを手に取る。

 百合香がいたころには、棚の上の小さな骨壺の前へ置かれ、生前と変わらず、しろのエサが供えられていた器だった。

 百合香は、取捨選択をし、自分に必要なものだけを手にこの部屋をあとにしたのだ。

 ――その様は、もうここに戻るつもりはないのだという、彼女の明確な意思を、否応(いやおう)なく雄二に伝えてくる。

 雄二は器を握る手に力を込めた。

 自分の知らない場所で、百合香がたった一人で、新しい人生を始める覚悟。雄二の隣に並ばない未来を生きる決意を感じさせる部屋に、思わず吐息がこぼれる。

(させるかよ)

 昨夜、百合香の携帯が一瞬だけ反応した。
 電源が入ったのは、ごくわずかな時間だった。

 それでも場所は拾えた。

 下関駅近郊のホテル。

 雄二はすぐに佐山へ連絡を入れた。
 すでに下関へ到着していた佐山は、百合香と同じホテルへ宿を取ったらしい。
 雄二はそんな佐山に、気取られないよう最善の注意を払い、彼女を見失わないよう見守ることに徹するよう念押しした。

 百合香は無事だ。

 その報告だけで、辛うじて息ができた。

 だが、まだ会いには行けない――。

 雄二は棚へしろの器を戻しながら、小さく息を吐いた。
「……必ず迎えに行く」

 静かな部屋に、その声だけが落ちた。
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