それぞれの幸せ

第6節 桐生百合香『戻ってもいいの?』

「百合香」

 聞き間違えるはずのない声だった。
 胸が大きく跳ねる。
 ゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは百合香が恋焦がれてやまない男――千崎雄二だった。

「……っ」

 ――見つかった。

 その言葉が頭をよぎる。

(逃げなきゃ)

 そう思って、(きびす)を返して数歩。すぐさま雄二に捕まった。
 腕の中へ閉じ込められる。抱き寄せられたまま恐る恐る雄二を見上げた百合香は、思わず言葉を失ってしまう。
 放して、と言うべきなのに、そんな言葉を忘れて「……え?」というつぶやきが漏れた。

(ひどい顔……)

 たった二日会わなかっただけなのに、雄二は別人のようにやつれて見えた。
 そんな雰囲気に拍車をかけるみたいに、目の下には濃い(くま)が浮かんでいる。
 毎日綺麗に()られていたはずの髭もうっすらと伸び、いつもきちんと着こなしていたスーツもどこかくたびれた様子で皺が目立っていた。
 ネクタイが曲がっていることも気になる。

 何より。
(雄ちゃん、寝てない……)

 百合香には分かってしまった。
 何年も一緒にいた。
 雄二が眠れている日も、眠れていない日も、そばで彼のことを見てきた。
 この顔は、ほんのちょっとの寝不足でなる雰囲気ではない。
 数日間、まともに眠っていない人の顔だった。

「雄ちゃん……!」

 逃げなきゃという気持ちは、その瞬間どこかへ消えてしまう。
 気が付けば無意識に雄二の頬を両手で挟んで、間近で彼の顔を見上げていた。

「どうしたの、その顔!」

 雄二は目を見開く。
 百合香は構わず顔を覗き込んだ。

「ちゃんと寝てる!?」
「百合香――」
「ご飯は!?」
「聞いてくれ」
「食べてないでしょ!? こんなにやつれて……!」

 雄二の頬を挟んだ両手に力がこもる。

 冷たい。
 いや、違う。
 身体は熱を帯びている。
 それなのにひどく消耗していることだけは伝わってきた。

「熱があるんじゃ……」
「百合香」
「病院は!?」
「百合香」

 名前を呼ばれても止まれない。

「みんな、雄ちゃんがこんなになるまで、どうして――」

 そこまで言って、はっと口をつぐむ。
 そんなことを言う資格なんて、自分にはない。

 なのに、雄二は怒らなかった。
 ただ困ったように笑って、小さく息を吐く。

「熱はない。ただ、寝れてないだけだ」
「寝不足だけでこんな顔になるわけないでしょう!」

 思わず声が大きくなる。
 ホテルの前でのこと。通り過ぎる人たちが、ふと足を止めてこちらをちらちらと見ている。

「あ……」

 百合香は慌てて口を押さえた。
 こんな場所で話すことじゃない。

「と、とりあえず私の部屋に……!」
「百合香」
「立ってるのもしんどそうだもの!」

 そう言ってから、自分でも気付く。
(まただ)
 逃げることも、距離を置くことも全部忘れて、雄二の心配ばかりしている。
(私、何やってるの……)
 それでも、目の前の雄二を、このまま外へ立たせておくことなんてできなかった。

「……来て」

 小さくそう言うと、百合香は雄二の手を引いてホテルの中へと引き返した。
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