それぞれの幸せ
 今日はハローワークへ行く予定だったけれど、そんなのどうでもいい。

 雄二は何も言わず、百合香に手を引かれるまま、後をついてくる。

 エレベーターの中は静かだった。
 隣に立つ雄二からは、いつもの煙草の匂いが微かにした。

 その懐かしさに胸が締め付けられる。

 部屋へ戻ると、百合香は急いでドアを閉めた。

「座って!」
 雄二が返事をする前にベッドへ促す。
「水!」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスへ注いで差し出す。
「ありがとう」
「ありがとうじゃない!」
 思わず言い返してしまう。
「ちゃんと鏡見た!? 顔色、本当に悪いんだから!」
 雄二は苦笑した。
「そんなに酷いか」
「酷いよ!」

 百合香はしゃがみ込み、改めて雄二の顔を見つめる。

 やっぱり物凄くやつれている。
 目の下の(くま)が酷い。
 一体何日眠っていないのだろう?
 こんなになるまで、どうして誰も彼を休ませてあげなかったの?

(私がそばにいたら……)

 無意識にそこまで考えて、胸が苦しくなる。
 それはもう出来ないと自分に言い聞かせて、雄二のもとを去ったんじゃないか。

「……眠れてなかったって言ってたけど、ご飯は……ちゃんと食べてた?」
「……あまり」
「でしょうね! ……一体いつから寝てないの?」
「ここ数日」
「……っ!」

 百合香は思わず目尻を潤ませた。
「どうして……」
 掠れた声が漏れる。
「なんで、こんなになるまで……」
 雄二は少しだけ目を伏せる。

「お前が……いなくなったから……」

 たった一言だった。
 百合香は息を呑む。

「お前が俺のもとを去ったと思うと……眠れなかった」

 静かな声。

「食べる気にもならなかった」

 その言葉に、胸の奥が痛む。

「百合香がいないと、駄目だった」

 涙が込み上げた。
 そんなこと、言わないで。
 そんな顔で、私を見つめないで。

「……奥様は」

 震える声で尋ねる。
 雄二はまっすぐ百合香を見つめた。

「離婚した」

 百合香の時間が止まる。

「迎えに来る前に、全部終わらせてきた」

 静かな声だった。

「親父にも話した」
「……え」
「許してもらった」

 信じられなかった。
 あれほど越えられないと思っていた壁を、雄二はひとつずつ越えてきたというのだ。

「だから迎えに来た」

 雄二はゆっくりと立ち上がる。

「今まで待たせた」
「……」
「愛人なんて立場に甘んじさせて、本当に悪かった」

 百合香は首を振る。

 違う。
 悪いのは自分だ。
 それでいいと……それでもいいからそばにいたいと望んだのは自分だ。
 そうしてそれに耐え切れなくなって逃げたのも自分――。

 なのに。

「こんな俺だけど……これからは、お前と一緒に生きていきたい」

 雄二が少しだけ困ったように笑う。

「……今度こそ」

 その言葉だけで、涙が溢れた。

 そんな雄二を前に、百合香は何度も首を振った。

「違うの……」

 声が震える。

「悪いのは私なの」

 泣きながら胸元を押さえる。

「雄ちゃんが謝ることなんて何もない」

 そう言っても、涙は止まらなかった。
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