それぞれの幸せ
「私……逃げたの」

 掠れた声で続ける。

「何も言わないでいなくなって……雄ちゃんからの連絡も見なくて……」

 ふと、ライティングテーブルへ視線が向く。

 しろの遺骨。
 昨日、唐戸市場で買ったふぐのほぐし身の瓶詰。
 そしてその隣へ置かれた携帯電話。それは、雄二名義で契約された携帯だった。
 雄二のもとを去ったあとも、位置情報を知られることを警戒しつつ、必要に駆られた時だけ何度か電源を入れた。
 それでも、通知だけはどうしても開けなかった。見たら駄目だと思った。見てしまったら、きっと戻りたくなるから。

 雄二は、百合香の視線を追うと携帯を手に取って、無言で見つめる。
 電源は切られたままだ。通知を確認しなかったことを責められるかもしれない。

 けれど――。

「……見てみるか?」

 静かな声だった。
 百合香は驚いて、携帯をこちらへ差し出してくる雄二を見上げる。
 そこには責める色も、怒りもない。
 ただ、待ってくれている眼差しだけがあった。

「……うん」

 震える手で携帯を手に取る。
 電源ボタンを長押しすると、静かに画面が灯った。
 起動を待つ数秒が、ひどく長い。

 やがてホーム画面が表示されると同時に、チェックをしていないままの通知(赤い数字)が目に飛び込んでくる。

「……っ」

 着信。
 ショートメッセージ。
 留守番電話。

 送り主を確認するまでもなく、どれも雄二からのものだった。

 何件も。
 何件も。
 何件も。

「私……」

 涙がぽたりと画面へ落ちる。

「見なかったの……」

 唇を噛む。

「怖かったの」

 震える声が漏れる。

「見たら……帰りたくなるって思ったから」

 だから電源を切った。
 だから新しい携帯を契約した。
 だから全部終わらせようとした。

 それなのに。

 百合香はショートメッセージを開く。

『無事でいてくれ』
『責めるつもりはない』
『話がしたい』
『雪絵とは離婚した』
『迎えに行く』

 短い言葉ばかりだった。
 飾らない、雄二らしい言葉。

「……っ」

 今度は留守番電話を再生する。

『……百合香』

 掠れた声だった。
 聞いたことがないくらい弱々しい雄二の声。

『頼む』

 長い沈黙。
 息を整える音だけが聞こえる。

『無事でいてくれ』

 そこで録音は終わった。

 もう一件。

『……百合香』
 また少し沈黙が続く。
『返事がほしい』
 掠れた息が漏れる。
『でも……無理はするな』
 もう一度、小さく息を吸う音。
『生きていてくれるだけでいい』


 胸が苦しくなる。

 さらにもう一件。

『離婚した』

 短く告げる声。
 少しだけ間が空いて。

『迎えに行く』

 通話が切れた。

「……っ」

 携帯を胸へ抱き締める。

「私……」

 涙が止まらない。

「こんなに……伝えてくれてたのに……」

 雄二は何も言わなかった。

 責めない。
 急かさない。

 ただ、百合香が泣き終えるのを静かに待ってくれていた。

「私……」

 涙を拭っても、次から次へと溢れてくる。

「マンションの鍵も置いてきたの」

 雄二は静かに頷く。
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