それぞれの幸せ
第10章 未来の約束
第1節 葛城雪絵『変わらない人』
気付けば、カップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。
どれくらい、この店に座っているのだろう。
窓の外を眺めたまま、雪絵は静かに息を吐いた。
離婚届は、雄二へ託した。
このあと雄二は、百香へ会いに行く。
きっと彼のことだ。その帰りに、役所へ寄るだろう。
今日中には、夫婦としての関係も、本当の意味で終わる。
二十年――。
人生の半分を共に歩いた雄二との時間が、静かに幕を下ろそうとしていた。
後悔がないと言えば嘘になる。
でも、何度考えても、あれしか選べなかったとも思うのだ。
それでも胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような喪失感だけが残っているのは、どうしようもなくて――。
ぼんやりと視線を落としたまま、冷めたコーヒーへゆっくりと手を伸ばす。
目の前には雄二が残していった飲みかけのコーヒーと、灰皿上でもみ消された煙草がひとつ。
(こんな時でもいつも通りなのね……)
灰皿の中の灰は片隅に綺麗に集められ、その傍へ吸い殻が添えられている。
雄二はいつもそうだった。
几帳面さを灰皿の中にも体現する。そんな男だった。
ひとくち口に含んだコーヒーは、当然のことながらもう温もりを残していない。ただただ苦いだけの液体に思えた。
「雪絵さん」
窓の外にばかり視線を向けていて気が付かなかった。
穏やかな声が降ってきて、ゆっくりと声の方へ顔を向けると、そこには三井隆司が立っていた。
「……迎えに来ました」
二十年も音沙汰無しだったくせに、まるで昨日の続きみたいに、三井が言う。
雪絵は懐かしい――、だけど二十年分年月を重ねて燻銀の風格を増した三井の顔を見つめた。
「年、取ったわね……」
そんなことが第一声なんて自分でもおかしいと思う。
それに、その言葉はお互い様だとも思った。
だけど、それしか出てこなかった。
三井は否定も肯定もせず、ただ少しだけ目を細めて笑った。
「……迎えに来るのが遅くなって、すみません」
三井のその一言に、雪絵は思わず笑ってしまった。
「本当よ」
少しだけ鼻に掛かった声になったのは、泣きそうだったからだ。
「遅すぎるわ」
「……はい」
素直に頷く姿まで、昔と変わらない。
二十年。
その時間は、謝ったくらいで埋まるものじゃない。
それでも三井は、言い訳をひとつもしなかった。
雪絵は静かに三井を見つめる。
「……了道おじちゃんから、私と会っちゃいけないって言われてたんでしょう?」
三井の肩が、わずかに揺れた。
おそらく図星だったんだろう。
でも、否定も肯定もしないで、ただ静かに目を伏せた。
「やっぱり。……じゃあ今日私がここにいるって教えたのは?」
「佳代さんです」
佳代は、百香を連れて一緒に屋敷を出てくるとき、何も言わなかった。
でも、それを聞いて納得した。そうでなければ、三井がこんなに早く雪絵の居場所を突き止められるはずがないのだから。
(ホント、みんな、私には何も言ってくれないんだから)
自分ばかり何も知らないで、周りが勝手に動いてしまう。
かつての雪絵はそれを心地よいと感じていた。けれど、今は少しだけ恨めしい。
ただ分かるのは、了道も三井も……もっと言えば雄二も、過去に誰かと交わした誓いを頑なに守っているのだ。
「……おじちゃんの言いつけは、破ってもいいの?」
その問いに、三井はゆっくり顔を上げた。
どれくらい、この店に座っているのだろう。
窓の外を眺めたまま、雪絵は静かに息を吐いた。
離婚届は、雄二へ託した。
このあと雄二は、百香へ会いに行く。
きっと彼のことだ。その帰りに、役所へ寄るだろう。
今日中には、夫婦としての関係も、本当の意味で終わる。
二十年――。
人生の半分を共に歩いた雄二との時間が、静かに幕を下ろそうとしていた。
後悔がないと言えば嘘になる。
でも、何度考えても、あれしか選べなかったとも思うのだ。
それでも胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような喪失感だけが残っているのは、どうしようもなくて――。
ぼんやりと視線を落としたまま、冷めたコーヒーへゆっくりと手を伸ばす。
目の前には雄二が残していった飲みかけのコーヒーと、灰皿上でもみ消された煙草がひとつ。
(こんな時でもいつも通りなのね……)
灰皿の中の灰は片隅に綺麗に集められ、その傍へ吸い殻が添えられている。
雄二はいつもそうだった。
几帳面さを灰皿の中にも体現する。そんな男だった。
ひとくち口に含んだコーヒーは、当然のことながらもう温もりを残していない。ただただ苦いだけの液体に思えた。
「雪絵さん」
窓の外にばかり視線を向けていて気が付かなかった。
穏やかな声が降ってきて、ゆっくりと声の方へ顔を向けると、そこには三井隆司が立っていた。
「……迎えに来ました」
二十年も音沙汰無しだったくせに、まるで昨日の続きみたいに、三井が言う。
雪絵は懐かしい――、だけど二十年分年月を重ねて燻銀の風格を増した三井の顔を見つめた。
「年、取ったわね……」
そんなことが第一声なんて自分でもおかしいと思う。
それに、その言葉はお互い様だとも思った。
だけど、それしか出てこなかった。
三井は否定も肯定もせず、ただ少しだけ目を細めて笑った。
「……迎えに来るのが遅くなって、すみません」
三井のその一言に、雪絵は思わず笑ってしまった。
「本当よ」
少しだけ鼻に掛かった声になったのは、泣きそうだったからだ。
「遅すぎるわ」
「……はい」
素直に頷く姿まで、昔と変わらない。
二十年。
その時間は、謝ったくらいで埋まるものじゃない。
それでも三井は、言い訳をひとつもしなかった。
雪絵は静かに三井を見つめる。
「……了道おじちゃんから、私と会っちゃいけないって言われてたんでしょう?」
三井の肩が、わずかに揺れた。
おそらく図星だったんだろう。
でも、否定も肯定もしないで、ただ静かに目を伏せた。
「やっぱり。……じゃあ今日私がここにいるって教えたのは?」
「佳代さんです」
佳代は、百香を連れて一緒に屋敷を出てくるとき、何も言わなかった。
でも、それを聞いて納得した。そうでなければ、三井がこんなに早く雪絵の居場所を突き止められるはずがないのだから。
(ホント、みんな、私には何も言ってくれないんだから)
自分ばかり何も知らないで、周りが勝手に動いてしまう。
かつての雪絵はそれを心地よいと感じていた。けれど、今は少しだけ恨めしい。
ただ分かるのは、了道も三井も……もっと言えば雄二も、過去に誰かと交わした誓いを頑なに守っているのだ。
「……おじちゃんの言いつけは、破ってもいいの?」
その問いに、三井はゆっくり顔を上げた。