それぞれの幸せ
「帰ってくれ。親父が死んだばかりでこっちも落ち着かない。まだ警察だって出入りする。今はそういう話が出来る状態じゃないの、分かるだろう!」
「あ? なに寝ぼけたこと言ってやがる! そういう話《《だから》》来てんだよ!」
 今までほぼ無言で玄関扉を押さえているだけだった男が、ギロリと雄二を睨んだ。
「こっちは出すもん出してんだよ! どんな形であれそれが回収出来りゃー文句はねぇんだ! 金が用意できねぇーってんなら、グダグダ言ってねぇで後ろの女差し出せや!」
 坊野を押しやったことが気に要らなかったんだろう。ガラの悪さを隠そうともせず、狂犬さながらに雄二を恫喝(どうかつ)してくるその男を、坊野が(いさ)めた。
「こらこら、志柿(しがき)。そんな汚い言葉を使ったら雄二さんだけじゃなく、後ろの可愛いお嬢さんがおびえてしまう」
 そんなこと、微塵も思っていないだろうことが、ニマニマした笑みを浮かべたまま配下をたしなめる表情から、ありありとうかがえた。
 さすがにここまであからさまにロックオンされて、不安に感じたんだろう。
 雄二の背後の百合香が「雄ちゃん……」と、か細い声で恋人の名を呼んだ。

 その声を聴いた瞬間、雄二の中で何かが定まった。

「もう一度だけ言ってやる。帰れ……」

 低い言葉を吐き出すなり、雄二は背後の百合香と八重子を奥へと押しやり、壁際の傘立てに立てかけられていた鉄製の傘を手に取った。

「おいおい。雄二さん。あんたバカなのかい? そんなボロッちぃ家ン中へ(かくま)ったところで何の解決にも……」
 ――ならないことは分かるでしょう?

 恐らくはそう続けられたであろう坊野の言葉は、雄二が傘を上段に構えたと同時にピタリとやんだ。

「貴様……」
 すぐそばで志柿(しがき)と呼ばれた男がそんな雄二を再度押さえつけようとするのを、坊野が手で制した。
「やめとけ……」
 恐らくは雄二の本気を感じ取ったんだろう。これ以上追い詰めれば、如何に暴力慣れした自分たちであっても無傷というわけにはいかない。そんな殺気が雄二から伝わってくる。

「雄二さん、あんた銀行員より《《こっち》》の方が向いてるんじゃないかな?」
 ククッと笑う坊野に、雄二の低い声音が響く。
「――もうこれ以上、くだらないことを言うな」
 声を張っているわけではない。だが明確な怒気を含んだ雄二の声は、自分たちを前にして恐怖も焦りも感じていなさそうな雰囲気だった。
 眼鏡越しに注がれる射抜くような視線からはこれ以上手出しをすれば、タダじゃ済まさないという覇気が感じられる。
 坊野はそんな雄二の気迫に押し負けたように肩をすくめてみせた。
「なぁ雄二さん。冗談抜きにして、俺の下で働かないか?」
 そうして気が付けば、坊野は結構本気で雄二をスカウトしてしまっていた。

 だが雄二はそんな坊野の言葉を完全に無視すると、淡々と続ける。
「警察は引き上げたが、まだ工場には指紋も証拠も残っている。お前らが今回のことにどれだけ関与しているか、調べればすぐに分かるだろうな」
 チラリと玄関扉に残る志柿の指紋を見遣りながら告げられた雄二の言葉には、冷たい理性がある。
 銀行員として(つちか)った、感情を全て排して計算ずくに動く男の声――。
< 15 / 41 >

この作品をシェア

pagetop