それぞれの幸せ
第2節 千崎雄二『今度こそ』
百合香と、彼女が住んでいたマンションで同棲し始めてから数週間が過ぎた。
昼下がりの雄相会事務所で書類へ目を通していた千崎雄二は、胸の内ポケットへ仕舞った携帯のバイブ音でふと動きを止める。
画面には、ジュエリーショップの番号が表示されていた。
「はい」
手にした書類へ目を通しながら応じると、若い女性の声が耳へ届いた。
『千崎様の携帯でお間違いないでしょうか?』
「ああ」
『お世話になっております。わたくし、『Écri Bijou』の山本と申します。本日はご注文のお品が完成いたしましたので、ご連絡差し上げました』
その言葉に、雄二の手が止まる。
(やっとできたか)
手にしていた書類を机上へ置き、胸の奥で小さく息を吐く。
「分かった」
『お引き取りのご都合はいかがでしょうか』
「今週中には行く」
『かしこまりました。お待ちしております』
短いやり取りのあと、通話が切れた。
静かになった事務所の中で、雄二はしばらく携帯を見つめる。
今からおよそ二十年前。
その頃は雄二も百合香も、未来を疑ったことなどなかった。
銀行マンだった自分の主任昇進と、百合香の専門学校卒業と就職を祝った――。
その時に雄二は密かに誓ったのだ。
社会人になったばかりの百合香が仕事に慣れた頃、――彼女の二十三歳の誕生日に指輪を渡し、プロポーズをしよう、と。
百合香に似合う花をモチーフにした愛らしい婚約指輪を贈り、籍を入れ、夫婦になる。
そんな当たり前の未来が待っているはずだった。
当たり前のように同じ人生を、二人で歩いていくはずだった。
だが、その未来は来なかった。
父・千崎幸太郎の死。
葛城雪絵との、望まぬ契約結婚。
本来一番に愛すべき百合香を、日陰の女として長い間待たせてしまった。
気が付けば、二〇年近い歳月が流れていた。
あっという間だった気もする。
だが決して平坦な道のりではなかった。
ただひとつ分かるのは、あの日果たせなかった想いが、今ようやく手の届く場所まで戻って来たということ。
(今度こそ)
雄二は小さく息を吐き、携帯をスーツの内ポケットへ戻した。
再度机上の書類へ手を伸ばしたところで、
「カシラ!」
不意に事務所の入り口から若い衆の声が響いた。
「何だ?」
余りの騒々しさに吐息を落として立ち上がると、中に入らず戸口のところで立ち往生している男が眉根を寄せて情けない声を出す。
「すんません。ちょっとご相談したいことが……」
(何事だ?)
思いながら男の手元を見れば、その手には小さな段ボール箱が抱えられていた。
事務所の奥から雄二以外の面々もばらばらと集まってくる。
先に男の手元を覗いた構成員の一人が、「あー」と声を上げた。
「何だ?」
促されるままに覗き込むと、箱の中から小さな鳴き声がした。
「にゃ」
薄汚れてやせ細った、白い子猫だった。
乳離れは出来ていそうな月齢に見えたが、貧相な身体は手のひらに収まりそうなほど小さい。
「拾ったのか」
「はい」
若い衆が頷く。
「あっちの路地裏でカラスに囲まれてて……放っとけなかったんっすよ」
それで、思わずカラスを追い払って連れて来たのだという。
雄二は箱の中を覗く。
子猫は小さく身を縮めて、一丁前に唸り声を上げた。
目つきが死ぬほど悪い。
お世辞にも器量よしとは言えそうにないその面構えに、思わず吐息がこぼれる。
昼下がりの雄相会事務所で書類へ目を通していた千崎雄二は、胸の内ポケットへ仕舞った携帯のバイブ音でふと動きを止める。
画面には、ジュエリーショップの番号が表示されていた。
「はい」
手にした書類へ目を通しながら応じると、若い女性の声が耳へ届いた。
『千崎様の携帯でお間違いないでしょうか?』
「ああ」
『お世話になっております。わたくし、『Écri Bijou』の山本と申します。本日はご注文のお品が完成いたしましたので、ご連絡差し上げました』
その言葉に、雄二の手が止まる。
(やっとできたか)
手にしていた書類を机上へ置き、胸の奥で小さく息を吐く。
「分かった」
『お引き取りのご都合はいかがでしょうか』
「今週中には行く」
『かしこまりました。お待ちしております』
短いやり取りのあと、通話が切れた。
静かになった事務所の中で、雄二はしばらく携帯を見つめる。
今からおよそ二十年前。
その頃は雄二も百合香も、未来を疑ったことなどなかった。
銀行マンだった自分の主任昇進と、百合香の専門学校卒業と就職を祝った――。
その時に雄二は密かに誓ったのだ。
社会人になったばかりの百合香が仕事に慣れた頃、――彼女の二十三歳の誕生日に指輪を渡し、プロポーズをしよう、と。
百合香に似合う花をモチーフにした愛らしい婚約指輪を贈り、籍を入れ、夫婦になる。
そんな当たり前の未来が待っているはずだった。
当たり前のように同じ人生を、二人で歩いていくはずだった。
だが、その未来は来なかった。
父・千崎幸太郎の死。
葛城雪絵との、望まぬ契約結婚。
本来一番に愛すべき百合香を、日陰の女として長い間待たせてしまった。
気が付けば、二〇年近い歳月が流れていた。
あっという間だった気もする。
だが決して平坦な道のりではなかった。
ただひとつ分かるのは、あの日果たせなかった想いが、今ようやく手の届く場所まで戻って来たということ。
(今度こそ)
雄二は小さく息を吐き、携帯をスーツの内ポケットへ戻した。
再度机上の書類へ手を伸ばしたところで、
「カシラ!」
不意に事務所の入り口から若い衆の声が響いた。
「何だ?」
余りの騒々しさに吐息を落として立ち上がると、中に入らず戸口のところで立ち往生している男が眉根を寄せて情けない声を出す。
「すんません。ちょっとご相談したいことが……」
(何事だ?)
思いながら男の手元を見れば、その手には小さな段ボール箱が抱えられていた。
事務所の奥から雄二以外の面々もばらばらと集まってくる。
先に男の手元を覗いた構成員の一人が、「あー」と声を上げた。
「何だ?」
促されるままに覗き込むと、箱の中から小さな鳴き声がした。
「にゃ」
薄汚れてやせ細った、白い子猫だった。
乳離れは出来ていそうな月齢に見えたが、貧相な身体は手のひらに収まりそうなほど小さい。
「拾ったのか」
「はい」
若い衆が頷く。
「あっちの路地裏でカラスに囲まれてて……放っとけなかったんっすよ」
それで、思わずカラスを追い払って連れて来たのだという。
雄二は箱の中を覗く。
子猫は小さく身を縮めて、一丁前に唸り声を上げた。
目つきが死ぬほど悪い。
お世辞にも器量よしとは言えそうにないその面構えに、思わず吐息がこぼれる。