それぞれの幸せ
 フロントで仮名を使い、現金で支払う。身分証を求められたが、事情を話すと若いフロント係が眉を曇らせてそれ以上は何も聞かなかった。
 母を部屋に通し、毛布を掛けると、ようやく八重子が雄二の袖を掴んだ。
「雄二、どこへ行くの……?」
「少し、人に会ってくる。夜のうちに、話をつけなきゃいけない」
「危ないこと、するんじゃないでしょうね……?」
「しないよ」
 笑って見せたが、その笑みはすぐ崩れた。
「何かあっても、部屋から出るな。百合香にも――」

 雄二はスマホを取り出し、百合香に電話を掛けた。
 数コールののち、眠たげな声が応答する。
「……雄ちゃん? どうしたの、こんな時間に」
「百合香。今夜は俺の言う通りにしてくれ。荷物を少しだけ持って外に出ろ。駅前のビジネスホテルに行って、チェックインしたら部屋番号を俺に送る。いいな?」
「え……どうしたの? まさか、また……」
「いいから。頼む」
 強い口調に、彼女が息を呑む音がした。
「……わかった。すぐ行く」

 通話を切ると、雄二は深く息を吐いた。
 母も、百合香も、これでしばらくは安全だ。
 あとは――自分の手で、あの連中を終わらせる。

 車のエンジンを切り、夜の空気の中に立つ。
 郊外の高台に見える、一際大きな屋敷の影。
 白壁と黒瓦の屋根、重厚な門構え。地元の人間なら誰でも知っている――葛西組組長・葛西了道の屋敷。
 子どものころ、父と一緒にトラックで町内を回っていた時も、そこを通るたびに父は小声で言った。
 「ここが、葛西の親分さんの家だ。揉め事を起こすなよ。筋の通らねぇ奴は、この町じゃ生きられねぇからな」

 ――筋。
 今の俺には、それしか残っていない。

 スマホのライトで時刻を見る。午後十時を少し過ぎていた。
 夜風が頬を打ち、背広の裾がわずかに揺れる。
 雄二は胸ポケットの中の父の遺書を確かめ、まっすぐ前を見据えた。

(法も正義も、守ってくれなかった。
 なら、次は“筋”に頼る番だ)

 舗装の途切れた坂を上り、門前に立つ。
 塀越しに見える松の影が、月の光で歪んだ。
 表札の金文字――「葛西」。
 胸の奥に沈めた恐怖が、ゆっくりと形を持つ。だが、それでも足は止まらなかった。

 雄二は拳で、重い門を叩いた。
 乾いた音が、静かな夜に響く。
 数秒後、内側から足音がして、格子戸が少しだけ開いた。
「……どちらさんで?」
「千崎雄二と申します。葛西了道さんに、どうしてもお目にかかりたい」
 番の男の眉がぴくりと動く。その名を聞いて、内部で短く無線の声がした。
 数秒の沈黙ののち、男は無言でうなずき、門の鍵を外した。

 重たい扉がゆっくりと開く。
 その奥、灯りの差す長い玄関へと、夜風が流れ込んだ。

 ――毒には毒を。
 その言葉が、雄二の胸の奥で静かに鳴った。
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