それぞれの幸せ
4.千崎雄二『毒をもって毒を制す』
エンジンの唸りが、夜の住宅街に低く響いた。
信号の少ない郊外の道を抜け、雄二は無言のままハンドルを握る。
助手席には、百合香の家へ寄って連れてきた白猫のしろ。百合香が飼っている猫だ。
母・八重子とともにビジネスホテルの一室に預けた百合香が、実はなかなかホテル入りを承諾しなかった理由がこの猫だった。
母には「明日また迎えに行く」とだけ告げ、百合香にはその言葉と一緒に、「しろは俺が面倒見るから心配するな」と付け加えた。百合香はしろの動画を送信することを条件に、渋々ホテル行きを承諾してくれた。別れの際、寂しそうな眼差しを向けてくる百合香の肩を抱いてやれないことがやけに心を重くした。
いっそ一緒に……。そう思わなかったわけじゃない。
だが、今から自分がしようとしていることを思えば、百合香を連れて行くわけにはいかないのも分かり切っていた。
「お前にも寂しい思いをさせるな……」
助手席に載せた薄桃色のキャリーケースへ声を掛ければ、分かっているのかいないのか。しろがニャーンと鳴いた。
母と百合香へ告げた「明日」も、本当に明日中のことになるのか、自分でも分からなかった。でも、それはあえて顔には出さず、二人に別れを告げた。
窓を少し開けると、夜風が流れ込んでくる。秋の気配を色濃く感じさせるようになった冷たい風には、実家で感じるような潮の匂いは混ざっていなかった。
猫を匿うため、一旦実家ではなくセキュリティ面が遥かに万全な自分のマンションへ向かうことにした。
百合香のアパートも実家よりはマシだが、気持ち雄二のマンションの方がハイグレードだ。
エントランスドアとエレベーターの作動に専用のカードキーが必要な雄二のマンションなら、あの半グレ借金取りたちも、容易には入って来られないだろう。
(今夜はとりあえずしろと一緒に一夜を明かすか……)
本当は今すぐにでもお目当ての場所へ向かいたい気持ちをグッとこらえると、雄二は小さく吐息を落とした。
雄二が頼りたい相手は、良くも悪くもこの町では知らない人間はいない男だ。
アポなしで突撃するにしても夜中の訪問はやめておいた方が無難だ。
雄二の思いを肯定するみたいに、キャリーの中のしろが鳴いた。
***
「しろ、加減して食えよ?」
百合香はこの猫に、保存容器内に入っているカップ一杯分のドライフードと、猫缶を二匙ほど混ぜたものを、毎日朝晩二回に分けて与えていた。
出掛ける予定のある今日。朝の餌はともかくとして、夜は何時になるか分からない。……ばかりか、もしかしたら明朝まで戻れない可能性だってある。
そう考えた雄二は、ドライフードと缶詰を別々の皿にいつもの二倍量ずつ入れた。気持ちドライフードの方を多めに盛ったのは、ウェットタイプの缶詰より傷みが遅いと思ったからだ。
「行ってくる」
この部屋を出るときには発したことのない言葉でしろに別れを告げると、雄二はグッと気を引き締めた。
実家のある南町から川をひとつまたいだ先、住宅数の一気に減る地域がある。別に過疎っているわけではない。
一軒あたりの家の敷地が、ぐんと広くなるのだ。まぁいわゆる金持ちが多く住む地域とでも言おうか。
いくら敷地が広いとはいえ我が家ではない。相手先の家の前に車を停めるわけにはいかないのでタクシーを呼んだ。
タクシー会社へ連絡する際に、ふと見たスマートフォンの画面には、百合香や母親の通知に混ざって、見たくもない未登録番号からの着信がいくつも並んでいた。
ネクサスファイナンスからのものだろう。
坊野と志柿――。
憶えていたくもないのに、昨日からずっとあの連中の顔と声が頭から離れなかった。
昨夜は何とか撃退できたが、一介の銀行員風情の自分にさしたる力なんてないことは、自分自身が一番分かっていた。
もちろん、昨日坊野達に告げた言葉は全部が全部ハッタリというわけではない。けれど百合香と母、ふたりを守るには、余りに非力でお粗末な手札だ。
相手もそういうことに関しては長けているはずだ。どういうやり方で反撃をしかけてくるか分からない。
母親と自分だけならまだしも、関係のない百合香まで脅すような連中だ。下手すると百合香の実家にだって迷惑をかけてしまう可能性だってあるんじゃないかと思えた。そういうとき、恐らく法は何の役にも立たない。
父の死に際してでさえ、警察はおためごかしのように父の遺体を連れ帰って調べる素振りを見せてはいるものの、結局のところは「自殺の線が濃厚です」で終わりにされるだろう。
脅しと自殺に因果関係があったとしても、借金を苦にして死んだ人間を、金を貸した側が殺したとするのは余りにも暴論だ。坊野らが直接手を下したり、幸太郎に保険金を掛けて死ぬよう仕向けたわけでもない限り、雄二が告げた言葉は何の役にも立たない。
――銀行内での不正を指摘した際にも思ったが、法なんてものは大して宛にならない。ましてや相手が非合法の連中ともなれば尚更――。
ならば、次は〝筋〟に頼る番だ。
目には目を、歯には歯を。毒を制するには結局毒が一番効果的なのだ。
窓外を眺めながら、雄二の脳内で父・幸太郎が生前話してくれた言葉が蘇る。
「ヤクザだ、極道だって嫌う人間も多いけどな、雄二。ここいら一帯を取り仕切ってる葛西組は一本筋が通ってる。もちろん深く関わり合いにゃなりたくないが、葛西のオヤジさんのお陰で俺たちは安心して商売が出来てる部分もあるんだよ。ああいうのを任侠ってんだろうな」
彼らは暴力も振るうけれど、決して《《まっとうな》》堅気には手出ししないんだ、と幸太郎が淡く微笑んだのを覚えている。いわゆる必要悪なのだと話してくれた幸太郎の表情からは、葛西組に対する畏怖の念すら感じられた。
その言葉は、今の雄二にとって、唯一のクモの糸に思えた。
信号の少ない郊外の道を抜け、雄二は無言のままハンドルを握る。
助手席には、百合香の家へ寄って連れてきた白猫のしろ。百合香が飼っている猫だ。
母・八重子とともにビジネスホテルの一室に預けた百合香が、実はなかなかホテル入りを承諾しなかった理由がこの猫だった。
母には「明日また迎えに行く」とだけ告げ、百合香にはその言葉と一緒に、「しろは俺が面倒見るから心配するな」と付け加えた。百合香はしろの動画を送信することを条件に、渋々ホテル行きを承諾してくれた。別れの際、寂しそうな眼差しを向けてくる百合香の肩を抱いてやれないことがやけに心を重くした。
いっそ一緒に……。そう思わなかったわけじゃない。
だが、今から自分がしようとしていることを思えば、百合香を連れて行くわけにはいかないのも分かり切っていた。
「お前にも寂しい思いをさせるな……」
助手席に載せた薄桃色のキャリーケースへ声を掛ければ、分かっているのかいないのか。しろがニャーンと鳴いた。
母と百合香へ告げた「明日」も、本当に明日中のことになるのか、自分でも分からなかった。でも、それはあえて顔には出さず、二人に別れを告げた。
窓を少し開けると、夜風が流れ込んでくる。秋の気配を色濃く感じさせるようになった冷たい風には、実家で感じるような潮の匂いは混ざっていなかった。
猫を匿うため、一旦実家ではなくセキュリティ面が遥かに万全な自分のマンションへ向かうことにした。
百合香のアパートも実家よりはマシだが、気持ち雄二のマンションの方がハイグレードだ。
エントランスドアとエレベーターの作動に専用のカードキーが必要な雄二のマンションなら、あの半グレ借金取りたちも、容易には入って来られないだろう。
(今夜はとりあえずしろと一緒に一夜を明かすか……)
本当は今すぐにでもお目当ての場所へ向かいたい気持ちをグッとこらえると、雄二は小さく吐息を落とした。
雄二が頼りたい相手は、良くも悪くもこの町では知らない人間はいない男だ。
アポなしで突撃するにしても夜中の訪問はやめておいた方が無難だ。
雄二の思いを肯定するみたいに、キャリーの中のしろが鳴いた。
***
「しろ、加減して食えよ?」
百合香はこの猫に、保存容器内に入っているカップ一杯分のドライフードと、猫缶を二匙ほど混ぜたものを、毎日朝晩二回に分けて与えていた。
出掛ける予定のある今日。朝の餌はともかくとして、夜は何時になるか分からない。……ばかりか、もしかしたら明朝まで戻れない可能性だってある。
そう考えた雄二は、ドライフードと缶詰を別々の皿にいつもの二倍量ずつ入れた。気持ちドライフードの方を多めに盛ったのは、ウェットタイプの缶詰より傷みが遅いと思ったからだ。
「行ってくる」
この部屋を出るときには発したことのない言葉でしろに別れを告げると、雄二はグッと気を引き締めた。
実家のある南町から川をひとつまたいだ先、住宅数の一気に減る地域がある。別に過疎っているわけではない。
一軒あたりの家の敷地が、ぐんと広くなるのだ。まぁいわゆる金持ちが多く住む地域とでも言おうか。
いくら敷地が広いとはいえ我が家ではない。相手先の家の前に車を停めるわけにはいかないのでタクシーを呼んだ。
タクシー会社へ連絡する際に、ふと見たスマートフォンの画面には、百合香や母親の通知に混ざって、見たくもない未登録番号からの着信がいくつも並んでいた。
ネクサスファイナンスからのものだろう。
坊野と志柿――。
憶えていたくもないのに、昨日からずっとあの連中の顔と声が頭から離れなかった。
昨夜は何とか撃退できたが、一介の銀行員風情の自分にさしたる力なんてないことは、自分自身が一番分かっていた。
もちろん、昨日坊野達に告げた言葉は全部が全部ハッタリというわけではない。けれど百合香と母、ふたりを守るには、余りに非力でお粗末な手札だ。
相手もそういうことに関しては長けているはずだ。どういうやり方で反撃をしかけてくるか分からない。
母親と自分だけならまだしも、関係のない百合香まで脅すような連中だ。下手すると百合香の実家にだって迷惑をかけてしまう可能性だってあるんじゃないかと思えた。そういうとき、恐らく法は何の役にも立たない。
父の死に際してでさえ、警察はおためごかしのように父の遺体を連れ帰って調べる素振りを見せてはいるものの、結局のところは「自殺の線が濃厚です」で終わりにされるだろう。
脅しと自殺に因果関係があったとしても、借金を苦にして死んだ人間を、金を貸した側が殺したとするのは余りにも暴論だ。坊野らが直接手を下したり、幸太郎に保険金を掛けて死ぬよう仕向けたわけでもない限り、雄二が告げた言葉は何の役にも立たない。
――銀行内での不正を指摘した際にも思ったが、法なんてものは大して宛にならない。ましてや相手が非合法の連中ともなれば尚更――。
ならば、次は〝筋〟に頼る番だ。
目には目を、歯には歯を。毒を制するには結局毒が一番効果的なのだ。
窓外を眺めながら、雄二の脳内で父・幸太郎が生前話してくれた言葉が蘇る。
「ヤクザだ、極道だって嫌う人間も多いけどな、雄二。ここいら一帯を取り仕切ってる葛西組は一本筋が通ってる。もちろん深く関わり合いにゃなりたくないが、葛西のオヤジさんのお陰で俺たちは安心して商売が出来てる部分もあるんだよ。ああいうのを任侠ってんだろうな」
彼らは暴力も振るうけれど、決して《《まっとうな》》堅気には手出ししないんだ、と幸太郎が淡く微笑んだのを覚えている。いわゆる必要悪なのだと話してくれた幸太郎の表情からは、葛西組に対する畏怖の念すら感じられた。
その言葉は、今の雄二にとって、唯一のクモの糸に思えた。