それぞれの幸せ
 車は橋へと差し掛かっていた。
 閑静な住宅街を抜けた先に、大きな邸宅が多い中にあって、周りの家々よりさらに広大な敷地を有している目板瓦付の白壁が続く。その敷地の中へ、威風堂々としたたたずまいの日本家屋の黒瓦が見える。
 葛西組――。この街で知らぬ者のない組をまとめる組長・葛西(かさい)了道(りょうどう)の邸宅だ。
 幼いころ、父と一緒にトラックで町内を回っていたとき、その前を通るたびに幸太郎は言った。
「ここが葛西の親分さんの家だ。揉め事を起こすなよ? 筋の通らねぇ奴は、ここじゃ生きられねぇからな」

 白壁が一部途切れ、大きな門が見えてくる。チラチラとルームミラー越しにこちらを気にしてくる運転手へ、「ここでいい」と告げると、雄二は門より百メートルばかり手前でタクシーを降りた。
 空はすっかり明るくなっていた。
 通勤の車が遠くを流れ、カラスの鳴き声が風に混じる。
 夜露を帯びた瓦が朝日を反射し、どこか冷たく鈍い輝きを放っていた。
 雄二がここへ降り立ったとき、周囲に人の気配はなかった。だが、確かに誰かがこちらを見ている気配がする。
 静寂の中、張り詰めた空気だけが漂っていた。

 一陣の風が顔を打ち、背広の裾を揺らす。朝の空気は冴え冴えと冷たい。
 白い息が、朝靄(あさもや)に短く浮かんでは消えた。

 門の前に立つと、両側の石灯籠がぼんやりと屋敷を照らしている。
 大きな木製の門。鉄の金具が鈍く光る。
 その前に、いつの間に出てきたのだろう? 黒いスーツ姿の男が二人、腕を組んで立っていた。

 無言のまま、雄二を見つめている。

「……どちら様で?」
 低い声。年の頃は三十前後。
 物腰は穏やかだが、目が笑っていない。
 この男たちに比べたら昨日実家を(おとな)った、ネクサスファイナンスの二人なんて小者だと思えた。

千崎(せんざき)雄二(ゆうじ)と申します。組長さんに……お目にかかりたい」
 雄二は深々と一礼した。
 風が一瞬、髪を乱す。男らはしばし沈黙し、左側の男が(ふところ)から無線機を取り出した。無線機を通じて聞こえてくる短い応答音が、朝の静けさに響いた。

 無線機のスイッチが押され、男が短く言葉を発した。
「客です。名は――千崎雄二」
 返ってきた声は、低く……どこか煙に巻くような響きを持っていた。
『……千崎? それは、海沿いの工場の……あの千崎幸太郎の(せがれ)か?』
 男は驚いたように目を瞬かせ、すぐに雄二を見た。
「……そうです」
 雄二は小さく頭を下げる。
 無線の向こうで、数秒の沈黙が落ちた。

 風の音だけが、門前の空気を渡っていく。
 木々の葉が擦れ合い、遠くで鳥の声がした。

 やがて、低く渋い声が再び響いた。
『わざわざ堅気(かたぎ)さんがこんなところまで足を運ぶって事は(こたぁ)、よほどの話なんだろう。――通してやれ』

 カチリ、と無線が切れる音。
 目の前の男は一礼し、無言のまま薬医門(やくいもん)の片隅に埋め込まれた、木枠に囲われたインターフォンにも見える操作パネルへ手を伸ばした。
 文字盤が淡く光り、液晶に「認証完了(ENTRY AUTHORIZED)」とだけ表示される。
 外から見れば古風な観音開きの門だが、内側には目立たぬよう電子錠が仕込まれているらしい。
 男が端末を軽く操作しただけで、門の内側で鉄のこすれるような音が聞こえ、重たい扉がゆっくりと開いていく。
 男に促されて門内へ入った瞬間、さきほどの音の正体がわかった。
 門に渡された鉄の(かんぬき)が静かに外れていたのだ。
 その無骨な仕組みの裏に、電子制御の気配がある――。そう思うだけで、胸の奥がわずかに重くなった。
 恐らく、自分がタクシーで乗り付けるまでの挙動も、あちこちに設置された監視カメラで見られていたのだろう。
 門にたどり着く前から、人気もないのに視線を感じていた理由が、ようやく腑に落ちた気がした。

 門を開けてくれた男たちはこれ以上雄二に付き合うつもりはないらしい。
 雄二に「どうぞ」とだけ告げると黙礼してまるで彫像のようにその場へ立った。

 足元の砂利が、かすかに鳴る。
 敷地の奥に続く石畳の道は手入れが行き届いていて、朝の光を受けて薄く光っていた。
 庭には松の木と、季節外れの椿がひとつ咲いている。
 あたりに漂う土と緑の匂いが、かえって緊張を際立たせた。

 先ほどの男の代わりのように、漆塗りの引き戸の玄関前には別の黒服の男がいて、無言で頭を下げると、「中でオヤジがお待ちです」と玄関扉を開けて頭を下げる。
 敵意は感じられないが、一瞬だけ向けられた男の眼差しは、明らかに〝雄二を見張る〟目をしていた。少しでもおかしな態度を取れば、その場でねじ伏せられてしまうだろう。

 雄二は男へ軽く会釈を返すと、広い玄関内へ足を踏み入れた。
 引き戸の内側は、すりガラス越しの柔らかな光が差していた。
 広い石張りの三和土(たたき)には靴の一足も見当たらない。恐らくはすぐ横へ設置された下駄箱の中へ仕舞われているんだろう。

 先程の男が雄二のすぐ横へ立つと、「千崎雄二さんをお連れしました」と中へ向けて声を掛けた。
「座敷へ通せ」
 短い返答が奥から聞こえた。
 声は落ち着いているが、どこか圧がある。

 案内の男が一歩下がり、雄二に小さくうなずいた。
 促されるように雄二は靴を脱ぎ、綺麗に磨き上げられた床板の上へ足を乗せる。
「スリッパをどうぞ」
 それを待っていたかのように先程の男にスリッパを勧められた雄二は、素直にそれを履いた。

 鼻腔をくすぐるのは、線香と煙草の混ざったような独特の匂い。
「どうぞこちらへ」
 男の先導で玄関から廊下へと続く道を奥へと進む。足元の床板はピカピカに磨き上げられ、チリひとつ落ちていない。窓から差し込む朝日を反射して艶光りするさまは、ある意味ものすごく荘厳だった。
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