それぞれの幸せ
別にここの雰囲気に気圧されたからではない。
母には別れを告げに行けたのに、百合香には出来ずにいた。そのことが心の奥底で引っかかっていた。
応接室の扉を開けると、了道がひとり静かに窓外を眺めていた。
背を向けたままでも、その存在感は圧倒的だ。
「来たか、千崎」
振り返らずに放たれた声に、雄二は自然と背筋を伸ばす。
了道は咥えていた煙草を机上の灰皿に押しつけがてら、ようやくこちらへ視線を向ける。
「……お前も確認したと思うが、火の粉は全部落とした」
「……ありがとうございます」
本心からの礼だった。
だがその言葉の後に訪れた沈黙は、胸の奥をひどく締め付ける。
了道は、雄二をじっと見つめた。
「千崎。お前……百合香って女を、本気で想ってるな?」
その一言で、心臓が跳ねた。
肯定するかわりに俯くと、了道は小さく鼻を鳴らした。
「好きな女がいるってぇのは悪いことじゃねぇ。だが――この世界に足を踏み入れた以上、〝堅気としての未来〟は選べねぇ。手ぇ貸すって言った時に、俺が問い掛けた覚悟の話、覚えてるか?」
「はい」
「じゃあ分かってるな? あの女と一緒になるのは諦めろ」
静かな声なのに、刃のように鋭かった。
雄二は唇を噛む。
(……そんなこと、俺だって分かってる……)
「お前がまだ、百合香って女に別れを告げに行けてねぇことは知ってる。だが、残念ながら堅気の女は〝表の女〟にはできねぇ。ましてや結婚なんざ……論外だ。それで不幸になった女を、俺は知ってるんだ」
経験論からの話だと言われ、胸の奥がじんと痛んだ。
そう言われる未来は、了道に全てを委ねると告げた時点で覚悟していたはずなのに――、現実として突きつけられると、想像以上に苦しかった。
「それとな……」
了道は腕を組み、ゆっくりと呼吸を整えた。
「こう言っといて矛盾してるかも知んねぇが、お前みたいな男には〝家〟が必要だ。堅気の女とは無理でも、お前に相応しい女と所帯を持て。お前は守るべき者を持ってる方が強くなれるタイプだからな」
「所帯……ですか」
百合香とは別れろと言っておいて、何を言い出すんだろう。そんな相手、百合香以外にいるわけがないではないか。
だが、了道のそれは助言でも脅しでもない。
どこか〝父親のような眼差し〟に見えた。
だからこそ、余計にその言葉が雄二には重く、身を切り裂かれるように痛かった。
――百合香以外の女と所帯を持て。
そう告げられたのだ。そう簡単に「分かりました」と答えられるわけがない。
沈黙が落ちる。
雄二は握った拳を身体の横で震わせた。
母や百合香を守るために踏み込んだ世界。
それなのに今、自分自身の手で母だけではなく、最愛の百合香まで遠ざけなければならない。
胸の奥から、何かがほろほろと崩れ落ちていく。
了道は、静かに、しかし確固とした声で言った。
「……今日で終わりにしろ。百合香とは会うな。あの女は〝堅気〟の世界に置いといてやれ」
雄二は目を閉じた。
(そんなこと……言われなくても……分かってる……)
だが声にならなかった。
苦しさで胸が張り裂けそうなのに、それでも従わなければならない理由を、雄二は誰より知っていた。
彼女を守るためなら――、自分が苦しむのは当然だ。
ゆっくりと顔を上げ、かすれた声で言う。
「……承知しました。ですが少しだけ時間を頂きたいのです」
「ああ。――ただし、猶予は一ケ月だ」
「分かりました」
その瞬間、恋も未来も……何もかもが指の隙間からこぼれて落ちていくような痛みが走った。
覚悟とは、こんなにも苦しいものなのか。
その問いだけが、胸の奥で静かに残った。
母には別れを告げに行けたのに、百合香には出来ずにいた。そのことが心の奥底で引っかかっていた。
応接室の扉を開けると、了道がひとり静かに窓外を眺めていた。
背を向けたままでも、その存在感は圧倒的だ。
「来たか、千崎」
振り返らずに放たれた声に、雄二は自然と背筋を伸ばす。
了道は咥えていた煙草を机上の灰皿に押しつけがてら、ようやくこちらへ視線を向ける。
「……お前も確認したと思うが、火の粉は全部落とした」
「……ありがとうございます」
本心からの礼だった。
だがその言葉の後に訪れた沈黙は、胸の奥をひどく締め付ける。
了道は、雄二をじっと見つめた。
「千崎。お前……百合香って女を、本気で想ってるな?」
その一言で、心臓が跳ねた。
肯定するかわりに俯くと、了道は小さく鼻を鳴らした。
「好きな女がいるってぇのは悪いことじゃねぇ。だが――この世界に足を踏み入れた以上、〝堅気としての未来〟は選べねぇ。手ぇ貸すって言った時に、俺が問い掛けた覚悟の話、覚えてるか?」
「はい」
「じゃあ分かってるな? あの女と一緒になるのは諦めろ」
静かな声なのに、刃のように鋭かった。
雄二は唇を噛む。
(……そんなこと、俺だって分かってる……)
「お前がまだ、百合香って女に別れを告げに行けてねぇことは知ってる。だが、残念ながら堅気の女は〝表の女〟にはできねぇ。ましてや結婚なんざ……論外だ。それで不幸になった女を、俺は知ってるんだ」
経験論からの話だと言われ、胸の奥がじんと痛んだ。
そう言われる未来は、了道に全てを委ねると告げた時点で覚悟していたはずなのに――、現実として突きつけられると、想像以上に苦しかった。
「それとな……」
了道は腕を組み、ゆっくりと呼吸を整えた。
「こう言っといて矛盾してるかも知んねぇが、お前みたいな男には〝家〟が必要だ。堅気の女とは無理でも、お前に相応しい女と所帯を持て。お前は守るべき者を持ってる方が強くなれるタイプだからな」
「所帯……ですか」
百合香とは別れろと言っておいて、何を言い出すんだろう。そんな相手、百合香以外にいるわけがないではないか。
だが、了道のそれは助言でも脅しでもない。
どこか〝父親のような眼差し〟に見えた。
だからこそ、余計にその言葉が雄二には重く、身を切り裂かれるように痛かった。
――百合香以外の女と所帯を持て。
そう告げられたのだ。そう簡単に「分かりました」と答えられるわけがない。
沈黙が落ちる。
雄二は握った拳を身体の横で震わせた。
母や百合香を守るために踏み込んだ世界。
それなのに今、自分自身の手で母だけではなく、最愛の百合香まで遠ざけなければならない。
胸の奥から、何かがほろほろと崩れ落ちていく。
了道は、静かに、しかし確固とした声で言った。
「……今日で終わりにしろ。百合香とは会うな。あの女は〝堅気〟の世界に置いといてやれ」
雄二は目を閉じた。
(そんなこと……言われなくても……分かってる……)
だが声にならなかった。
苦しさで胸が張り裂けそうなのに、それでも従わなければならない理由を、雄二は誰より知っていた。
彼女を守るためなら――、自分が苦しむのは当然だ。
ゆっくりと顔を上げ、かすれた声で言う。
「……承知しました。ですが少しだけ時間を頂きたいのです」
「ああ。――ただし、猶予は一ケ月だ」
「分かりました」
その瞬間、恋も未来も……何もかもが指の隙間からこぼれて落ちていくような痛みが走った。
覚悟とは、こんなにも苦しいものなのか。
その問いだけが、胸の奥で静かに残った。