それぞれの幸せ
「雪絵さん、そんなに緊張なさらなくても大丈夫です」
 三井との付き合いも今年で丸十年になる。いま雪絵が二十歳(はたち)だから三井は三十路(みそじ)に足を掛けたばかりだ。長いこと雪絵についてきてくれた男だけあって、表に出しているつもりなんてなくても、雪絵の落ち着かない心待ちなんて筒抜けだった。

 そうこうしていたら(ふすま)が開いて、葛西(かさい)了道(りょうどう)とともに、一人の男が入ってくる。
 見たことのないその男は、背広に身を包んだ長身の美丈夫だった。眼鏡越しの眼差しは静かに鋭く、雪絵がいつも見慣れている極道者の荒々しさよりも、銀行員か役人のような理知的な気配を纏っていた。

千崎(せんざき)雄二(ゆうじ)と申します。――今日からお世話になります」

 深々と頭を下げた男の声は落ち着き払っていて、広間の空気を一瞬で変えた。
 雪絵は思わず息を飲む。これまで極道の男たちの武骨さしか知らなかった自分にとって、そのエリート然とした(たたず)まいはあまりに異質で、目を逸らせなかった。

(――ダメ。この人は惹かれちゃいけない人だ……)

 そう思った時点で、もう彼に落ちてしまっていたのかも知れない。

 雪絵が千崎から《《意図的に》》視線を伏せたと同時、隣室からパタパタと軽快な足音が聞こえてくる。
「お姉ちゃん!」
 なんの躊躇いもなく(ふすま)をガラリと押し開けた葛西(かさい)了道(りょうどう)の一人娘の葛西(かさい)琴音(ことね)が、場の空気なんてお構いなし。一直線に雪絵目掛けて駆け寄ってくると、ギューッと抱きついた。

「ちょっ、お嬢! 今ここは――」
 そのあとを慌てた様子で追い掛けてきた男は、琴音の世話係の相良(さがら)京介(きょうすけ)だ。
 雪絵とは八つ年の離れた琴音に、やや振り回され気味。まだまだ世話係としては半人前といったところか。
 思えば三井も、昔はあんな感じで自分に振り回されていたなとぼんやり思う。琴音ほどアグレッシブではなかったにせよ、(とお)も年の離れた女の子の相手は、きっと二十歳(はたち)やそこらの――それも我が子をもったことすらない三井には戸惑いの連続だったに違いない。

 確か相良は雪絵より二つ年下だったはずだから、今十八歳か。
 腰元に十二歳の少女の温もりを感じながら、雪絵の顔が自然にほころんでいた。
 何故なら――。
「お嬢そろそろ――」
 どこか落ち着かない様子で自分たちのすぐ傍までにじり寄ってきた相良が、了道(組長)や三井、それから千崎の視線を気にしながらも、琴音をこの場から引き離そうと頑張っている様はなかなかに見ものだったからだ。
「イヤ! 今日は新しい人が入ってくるんでしょう? 私だけ仲間外れなんてごめんだわ!」
 琴音が雪絵にしがみついたままぷぅっと頬を膨らませるのを見て、
「すみません」
 申し訳なさげに頭を下げた相良のその眼差しは、だが若さの中にも鋭さを潜ませていて、やはり千崎という男の雰囲気とは違うなと思ってしまった。

「相良よ、琴音を外したのが俺の間違いだった。そのままここにいろや」
 あえて、だろう。黙ってこちらのやり取りを《《愛し気に》》見詰めていた了道が、ふっと表情を和らげて相良に告げる。
 雪絵は自分も可愛がってもらっているけれど、葛西了道(目の前の男)琴音(むすめ)を溺愛していることを知っていたから、琴音が飛び込んできた時点でこうなるであろうことは予測できていた。

 それよりも分からないのは、琴音は外されていたこの場に、《《自分が最初から居合わせられていた》》ことだ。
(……これはただの顔合わせじゃない?)
 きっと了道の思惑のもとに、自分はここへ座らされている。
 なんとなく了道の目論見が分かった気がして、雪絵はグッと奥歯を噛みしめた。
(了道おじちゃんには悪いけど、私、絶対に彼には惹かれたりしない……)
 それでもそう思えば思うほど、雪絵は千崎雄二から視線を外すことが出来なくて戸惑う。
 そんな雪絵の横顔を、すぐそばに控えた三井(みつい)隆司(たかし)が、気遣わし気な眼差しで見詰めていた。
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