それぞれの幸せ
「百合香。賢いお前のことだ。すでに察してるかも知れないが、俺は――もう、お前の知る堅気の男じゃない」
淡々とした声が、暗い水面に石を落としたみたいに冷たく広がった。
「……どういう、こと?」
「うちの母親から聞かなかったか? 銀行は、とうの昔に辞めてる。……葛西組の組長には、借金取りの件で世話ンなった。恩を返すため、俺は葛西組に入ったんだよ」
言葉は短く、鋭利な刃物みたいに真っ直ぐでなんの飾り気もない。だが、言葉少ないまでも、説明としては十分だった。
なのに百合香の理解だけが情けないくらいに追い付かないのだ。
「俺はお前を――これ以上俺の事情に巻き込めない」
その一言で、胸の奥に落ちた杭が、ずぶずぶと沈んでいく。巻き込んで欲しいのに、それは出来ないと線引きされたのが泣きたいくらいに悲しかった。
「雄ちゃん、それ、すごく大事な話だよね? お願いだから……せめて私の目を見て話してよ。どうしてずっとそっぽを向いたままなの?」
懇願の声は、酷くみっともない震え方をした。
それでも、雄二は百合香の方を振り返らなかった。まるでそうしてしまったら、弱さがあふれ出してしまうと、恐れているかのようだった。
「百合香。俺にはお前の綺麗な顔を見る資格はない。――葛西のオヤジは、……俺に縁談を考えてる」
まるでそこに自分の意思は反映されないのだとでも言いたげな、諦観の感じられる声音だった。
そうして〝縁談〟という単語は、百合香の胸の奥にも冷たいものを落とす。
「相手は……極道の世界の娘だ。今日、俺はその女性の護衛を言い渡された。……そのつもりで、見ておけ、と」
護衛。娘。縁談。
言葉の意味は分かるのに、形になるまでに数秒かかった。
「じゃあ――じゃあ、今夜は、どうして……?」
――ここへきて私を抱いたの?
問いは、最後まで紡げなかったし、発せられた言葉も、情けないほど小さく尻すぼみだった。
雄二は百合香の必死の問いに小さく身じろぐと、肩を落として扉の方へと歩き出す。
手がノブに触れた瞬間、低く、掠れた声が落ちた。
「……俺が……百合香を離したくない、って思ったからだ……。俺の勝手で別れるくせに、どうしても最後に百合香の温もりを感じたかった……。最後まで俺の事情で振り回して、すまない」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
「雄ちゃん!」
思わず裸のままベッドから降りた百合香の数メートル先。
言い捨てるようにそれだけ言うと、扉が音もなく開いて閉じた。
静寂の底で、百合香は一糸纏わぬ姿のまま、ただ茫然と立ち尽くして震える。
涙は出なかった。泣いてしまえば、今この瞬間までもが全部、夢だったみたいに崩れてしまいそうで怖かった。
(……離したくないって、言ってくれたのに……なのに私の気持ちは聞いてくれないままに行ってしまうのね……?)
雄二が最後に残した〝本音〟が、救いにも毒にもなって、胸の真ん中に刺さったまま抜けなくなってしまう。
リビングの片隅でカサカサと音がした。
「しろ……?」
いつの間に入れられてしまったのだろう?
しろが、部屋の片隅でキャリーケースに閉じ込められていた。
「ニャー……」
キャリーの中で小さく鳴くしろが、誰かに救いを求めているようだった。
「気付かなくてごめんね。今出してあげる」
――その様は、まるで今の自分みたいだと……百合香は思った。
***
秋の夕暮れは、仕事帰りの街を少しだけ綺麗に見せる。
雄二と最後に会って一週間ちょっと。あんなにたくさんつけられた情事の痕跡――キスマークも、ずいぶん薄くなってしまった。
(せめて避妊をしてくれていなかったら……)
そんなふしだらなことを思ってしまうのは、どうかしている証拠だろう。
雄二は、自分は堅気ではなくなってしまったと言っていたけれど、本質的な部分は変わっていなかった。
避妊――。
そのことだけで、どんなに冷静さを欠いて見えても、百合香の身体にもしものことが起きてしまうようなことは極力避けてくれていたんだと理解できて……。それが分かるから百合香は余計にやる瀬なかった。
百合香は今年の春、念願のランジェリーメーカーに就職したばかりだ。季節は巡り、秋になり……やっと職場にも慣れてきて、少しずつ任される業務が増えてきた。それはとてもやり甲斐のあることで、百合香は仕事が楽しくて仕方がなかった。その裏で、雄二が同じように仕事のことで苦しんでいたなんて気付けないくらい舞い上がっていたんだと思うと、自分の馬鹿さ加減が嫌になるくらい――。
そんな中でも、雄二は百合香への配慮を絶対に忘れなかった。
雄二は結婚を前提として付き合っていた時ですら、百合香が落ち着くまでは……と決して避妊を怠ろうとはしなかった。
そうしてそれは、あんなに激しく求められた夜ですら変わらなくて――。
淡々とした声が、暗い水面に石を落としたみたいに冷たく広がった。
「……どういう、こと?」
「うちの母親から聞かなかったか? 銀行は、とうの昔に辞めてる。……葛西組の組長には、借金取りの件で世話ンなった。恩を返すため、俺は葛西組に入ったんだよ」
言葉は短く、鋭利な刃物みたいに真っ直ぐでなんの飾り気もない。だが、言葉少ないまでも、説明としては十分だった。
なのに百合香の理解だけが情けないくらいに追い付かないのだ。
「俺はお前を――これ以上俺の事情に巻き込めない」
その一言で、胸の奥に落ちた杭が、ずぶずぶと沈んでいく。巻き込んで欲しいのに、それは出来ないと線引きされたのが泣きたいくらいに悲しかった。
「雄ちゃん、それ、すごく大事な話だよね? お願いだから……せめて私の目を見て話してよ。どうしてずっとそっぽを向いたままなの?」
懇願の声は、酷くみっともない震え方をした。
それでも、雄二は百合香の方を振り返らなかった。まるでそうしてしまったら、弱さがあふれ出してしまうと、恐れているかのようだった。
「百合香。俺にはお前の綺麗な顔を見る資格はない。――葛西のオヤジは、……俺に縁談を考えてる」
まるでそこに自分の意思は反映されないのだとでも言いたげな、諦観の感じられる声音だった。
そうして〝縁談〟という単語は、百合香の胸の奥にも冷たいものを落とす。
「相手は……極道の世界の娘だ。今日、俺はその女性の護衛を言い渡された。……そのつもりで、見ておけ、と」
護衛。娘。縁談。
言葉の意味は分かるのに、形になるまでに数秒かかった。
「じゃあ――じゃあ、今夜は、どうして……?」
――ここへきて私を抱いたの?
問いは、最後まで紡げなかったし、発せられた言葉も、情けないほど小さく尻すぼみだった。
雄二は百合香の必死の問いに小さく身じろぐと、肩を落として扉の方へと歩き出す。
手がノブに触れた瞬間、低く、掠れた声が落ちた。
「……俺が……百合香を離したくない、って思ったからだ……。俺の勝手で別れるくせに、どうしても最後に百合香の温もりを感じたかった……。最後まで俺の事情で振り回して、すまない」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
「雄ちゃん!」
思わず裸のままベッドから降りた百合香の数メートル先。
言い捨てるようにそれだけ言うと、扉が音もなく開いて閉じた。
静寂の底で、百合香は一糸纏わぬ姿のまま、ただ茫然と立ち尽くして震える。
涙は出なかった。泣いてしまえば、今この瞬間までもが全部、夢だったみたいに崩れてしまいそうで怖かった。
(……離したくないって、言ってくれたのに……なのに私の気持ちは聞いてくれないままに行ってしまうのね……?)
雄二が最後に残した〝本音〟が、救いにも毒にもなって、胸の真ん中に刺さったまま抜けなくなってしまう。
リビングの片隅でカサカサと音がした。
「しろ……?」
いつの間に入れられてしまったのだろう?
しろが、部屋の片隅でキャリーケースに閉じ込められていた。
「ニャー……」
キャリーの中で小さく鳴くしろが、誰かに救いを求めているようだった。
「気付かなくてごめんね。今出してあげる」
――その様は、まるで今の自分みたいだと……百合香は思った。
***
秋の夕暮れは、仕事帰りの街を少しだけ綺麗に見せる。
雄二と最後に会って一週間ちょっと。あんなにたくさんつけられた情事の痕跡――キスマークも、ずいぶん薄くなってしまった。
(せめて避妊をしてくれていなかったら……)
そんなふしだらなことを思ってしまうのは、どうかしている証拠だろう。
雄二は、自分は堅気ではなくなってしまったと言っていたけれど、本質的な部分は変わっていなかった。
避妊――。
そのことだけで、どんなに冷静さを欠いて見えても、百合香の身体にもしものことが起きてしまうようなことは極力避けてくれていたんだと理解できて……。それが分かるから百合香は余計にやる瀬なかった。
百合香は今年の春、念願のランジェリーメーカーに就職したばかりだ。季節は巡り、秋になり……やっと職場にも慣れてきて、少しずつ任される業務が増えてきた。それはとてもやり甲斐のあることで、百合香は仕事が楽しくて仕方がなかった。その裏で、雄二が同じように仕事のことで苦しんでいたなんて気付けないくらい舞い上がっていたんだと思うと、自分の馬鹿さ加減が嫌になるくらい――。
そんな中でも、雄二は百合香への配慮を絶対に忘れなかった。
雄二は結婚を前提として付き合っていた時ですら、百合香が落ち着くまでは……と決して避妊を怠ろうとはしなかった。
そうしてそれは、あんなに激しく求められた夜ですら変わらなくて――。