それぞれの幸せ
 半ば無理矢理に身体を開かれる形で始まった最後の一夜ですら、雄二はそこだけはしっかり線引きをして百合香を抱いた。
 百合香は、それが彼なりの優しさだと分かっていたけれど、ちょっぴり恨めしく思ってしまっている。
(お腹に、雄ちゃんとの赤ちゃんがいてくれたら……)
 こんな風に雄二を失ってしまうくらいならば、仕事なんてどうでもよかったのに。
 雄二は真面目な男性(ひと)だから……きっと百合香に妊娠の可能性があったなら、あんな風に自分を切り捨てたりはしなかったはずだ。いるかどうかも分からない〝新しい生命(いのち)〟という切り札で、愛する人を少しでも長く繋ぎとめたかった。
 そんな未練がましいことを思ってしまう程度には、百合香の心は雄二から離れられない。

(うまくいっていたときに『私、すぐにでも雄ちゃんとの赤ちゃんが欲しいの』って言えていたら……)
 例え雄二が極道になってしまったとしても、今でも変わらず雄二は百合香の隣にいてくれただろうか?
(組長さんだって、身重の女を捨てろだなんて言わなかったんじゃないかな……)
 考えても仕方がないことが頭の中をぐるぐるしてしまう。

 仕事中は業務のお陰で何とか考えずに済む〝愛しい人を失くした〟という現実が、プライベートな時間になると途端に脳内を占拠してどうしようもなくなる。
 家の中にいたら雄二のことばかりを考えてしまってつらい。
 家の中は、どこもかしこも雄二と過ごした思い出しかないのだから当然だ。しろには申し訳ないと思うけれど、百合香は家を空けがちになった。
 外に出たからと言って、結局は雄二のことを考えてしまっている。そこは変わらないのだけれど……堅気じゃなくなったと言っても、雄二は変わらずこの街に住んでいるはずだ。もしかしたら、外にいればどこかで彼の姿を見かけることもできるかもしれない。
 その希望だけが百合香を何とか生かしていた。

 薄い茜色の光の中、信号待ちで立ち止まったとき、視界の端に黒塗りの高級車が止まった。
 それは、小さめだけど新しい一軒家の前だった。
 運転席から降りた男が、すぐさま後部座席のドアを開ける。開かれた扉から柔らかな布の影が揺れた。

 モーブピンクの、清楚なロングワンピース。
 柔らかな素材でできた裾と、長いストレートの黒髪が、秋風にふわりと揺れる。
 色白の横顔が、夕焼けの光に溶けた。

(雄ちゃん……!)
 車道を挟んでいて、距離があっても分かる。
 日本人形のような、(はかな)げな女性をエスコートしているスーツ姿の長身男性は、百合香の愛してやまない男――千崎雄二だった。

 雄二が、その女性に「行くか」というふうに顎を少しだけ動かした。女は頷く。
 彼は前を歩き過ぎず、後ろに下がりすぎず、自然な距離で彼女の横に立っている。
 誰より見慣れているはずの、彼の歩調。
 数か月前までは、確かに百合香の横にあったものだった。

(――雄ちゃん、隣にいる女性(ひと)は誰?)
 そんなの、本当は分かっていた。
 だって雄二は別れ際、百合香に〝結婚を前提に面倒を見るように言われた女性がいる〟と話していたのだから。
 だけど……そんなの、認めたくないではないか――。
 胸の奥を、棘だらけの爆弾が何発も弾けたみたいな痛みが襲う。
 答えの分かり切った問い掛けは、喉で崩れて声にはならなかった。
 信号が青に変わっても足が動かず、横断歩道の前で立ち止まったままの百合香の横を、何人もの人が迷惑そうにちらちら振り返りながらすり抜け、向こう岸へと渡っていく。
 自分もあちら側へ渡って、雄二の後を追いかけたい。追いかけなきゃいけないのに、足が地面に張り付いたみたいに動いてくれなかった。

 雄二と黒髪ストレートの女性の姿が、家の中へと消えていく――。
 家の前には、さっきまで雄二がいたはずの車が一台、ぽつんと取り残されていた。
 百合香は五回青信号を渡れないままにやり過ごしてからやっと……足を動かすことができた。
 雄二たちが家屋内に消えてから、一〇分近くが経過していた。
 今更家の前に行ったからといって、雄二の姿を見ることは叶わないだろう。
 だけど、百合香はトボトボとそちらを目指さずにはいられなかった――。
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