それぞれの幸せ
数軒の民家の前を通り、小さな門の前で立ち止まる。
視線を感じて見上げると、塀のあちこちに防犯カメラが設置されていて、百合香のことを見つめていた。
ぱっと見は普通の民家にしか見えないのに、万全のセキュリティで守られているように見える家。それは、百合香が八重子とともにホテルから移された葛西組の息がかかった一軒家に似ていた。
(雄ちゃんのお相手は……葛西組の組長さんにとっても、大事な女性ってこと……?)
おそらくはそういうことなんだろう。
このままここに立っていたら、不審人物として葛西組の人に囲まれてしまうかもしれない。
でも、百合香はどうしても、相手の女性の名前を確かめたかった。
門柱に小さな表札。『葛城』、と読めた。その横に設置されたポストには『葛城雪絵』の文字。
(……かつらぎ、ゆきえ……さん)
名前が分かった途端、雄二が黒髪の彼女に向けて『雪絵』と呼ぶ声が聞こえてきた気がして、百合香はポロリと涙を落した。
彼は門が閉まるのを確かめるようにしばらく立ち尽くし、ポケットに手を入れたまま振り返る。
歩道の灯りが頬をなぞる。
私は、飛び出せなかった。声を掛ける勇気が、ひとつも出てこなかった。
家に戻ってから、初めて泣いた。
声が出ない泣き方だった。
眠れなかった夜の明け方、腫れた目のまま鏡を見て、笑ってみた。うまく笑えなかった。
* * *
それでも――それでも、私はまた行ってしまった。
理性は止めたのに、足が勝手に覚えていた。
門の向かい側の並木の陰に、身を寄せる。
たぶん、何度目かの夕方。
彼はやはりそこへ現れて、門から出てきた彼女と二言三言、言葉を交わし、同じ距離で歩き出す。
見ないと死んでしまいそうで、見るともっと苦しくなる。
そんな罰みたいな時間が続いた。
風の色、空の高低、落ち葉の乾いた音。
全部がやけに鮮明で、私は並木の影の一部になったみたいに立ち尽くす。
その日、彼女を門の中へ送り届け、扉が閉まった――その瞬間。
雄二がこちらを見た。
視線が、刺すみたいに合う。
逃げる間もなかった。
彼は一歩、二歩と近づいてきて、目の前で立ち止まる。
「……なんで、ここにいる」
叱責でも嘲りでもない。
痛みと苛立ちと、抑えつけた何かが混ざった声だった。
「ごめん……ごめんなさい……」
咎められると思っていた。
それでも、言い訳は何ひとつ用意していなかった。
次の瞬間、肩を掴まれて、息が止まった。
噛み付くみたいなキス。
飢えた獣みたいな、乱暴な熱。
背中が門柱に押し当てられて、痛みが甘く響く。
私は反射的に彼のシャツを掴み、必死に呼吸を探した。
舌がほどけて、息が混ざって、涙がこぼれる。
「……バカだよ、私たち」
笑ったのか泣いたのか、自分でも分からない声が落ちる。
彼は額を私の額に押し当て、低く、震える声で言った。
「離せるなら、とっくに離してる」
心臓が、痛いほど暴れた。
だめだ、と思う。これでは、誰も幸せになれない。
でも、彼の腕の中は、世界のどこより安全だった。
「雄ちゃん……」
名を呼ぶたび、彼は強く抱き締めた。
何度も、何度も。
夜の気配が濃くなっていく。
並木道の先で信号が変わり、車が滑っていく音がした。
(離れなきゃいけない。――でも)
何度も自分に言い聞かせた言葉が、唇の端でほどける。
息が上がって、喉の奥が熱い。
胸の奥に刺さったままの言葉が、とうとう形になって落ちた。
「……私、やっぱり――雄ちゃんとは、離れられない」
掠れた声で告げた瞬間、彼の腕の力がわずかに増した。
どこかで犬が吠え、秋の夜風が、二人の間をすり抜けていった。
視線を感じて見上げると、塀のあちこちに防犯カメラが設置されていて、百合香のことを見つめていた。
ぱっと見は普通の民家にしか見えないのに、万全のセキュリティで守られているように見える家。それは、百合香が八重子とともにホテルから移された葛西組の息がかかった一軒家に似ていた。
(雄ちゃんのお相手は……葛西組の組長さんにとっても、大事な女性ってこと……?)
おそらくはそういうことなんだろう。
このままここに立っていたら、不審人物として葛西組の人に囲まれてしまうかもしれない。
でも、百合香はどうしても、相手の女性の名前を確かめたかった。
門柱に小さな表札。『葛城』、と読めた。その横に設置されたポストには『葛城雪絵』の文字。
(……かつらぎ、ゆきえ……さん)
名前が分かった途端、雄二が黒髪の彼女に向けて『雪絵』と呼ぶ声が聞こえてきた気がして、百合香はポロリと涙を落した。
彼は門が閉まるのを確かめるようにしばらく立ち尽くし、ポケットに手を入れたまま振り返る。
歩道の灯りが頬をなぞる。
私は、飛び出せなかった。声を掛ける勇気が、ひとつも出てこなかった。
家に戻ってから、初めて泣いた。
声が出ない泣き方だった。
眠れなかった夜の明け方、腫れた目のまま鏡を見て、笑ってみた。うまく笑えなかった。
* * *
それでも――それでも、私はまた行ってしまった。
理性は止めたのに、足が勝手に覚えていた。
門の向かい側の並木の陰に、身を寄せる。
たぶん、何度目かの夕方。
彼はやはりそこへ現れて、門から出てきた彼女と二言三言、言葉を交わし、同じ距離で歩き出す。
見ないと死んでしまいそうで、見るともっと苦しくなる。
そんな罰みたいな時間が続いた。
風の色、空の高低、落ち葉の乾いた音。
全部がやけに鮮明で、私は並木の影の一部になったみたいに立ち尽くす。
その日、彼女を門の中へ送り届け、扉が閉まった――その瞬間。
雄二がこちらを見た。
視線が、刺すみたいに合う。
逃げる間もなかった。
彼は一歩、二歩と近づいてきて、目の前で立ち止まる。
「……なんで、ここにいる」
叱責でも嘲りでもない。
痛みと苛立ちと、抑えつけた何かが混ざった声だった。
「ごめん……ごめんなさい……」
咎められると思っていた。
それでも、言い訳は何ひとつ用意していなかった。
次の瞬間、肩を掴まれて、息が止まった。
噛み付くみたいなキス。
飢えた獣みたいな、乱暴な熱。
背中が門柱に押し当てられて、痛みが甘く響く。
私は反射的に彼のシャツを掴み、必死に呼吸を探した。
舌がほどけて、息が混ざって、涙がこぼれる。
「……バカだよ、私たち」
笑ったのか泣いたのか、自分でも分からない声が落ちる。
彼は額を私の額に押し当て、低く、震える声で言った。
「離せるなら、とっくに離してる」
心臓が、痛いほど暴れた。
だめだ、と思う。これでは、誰も幸せになれない。
でも、彼の腕の中は、世界のどこより安全だった。
「雄ちゃん……」
名を呼ぶたび、彼は強く抱き締めた。
何度も、何度も。
夜の気配が濃くなっていく。
並木道の先で信号が変わり、車が滑っていく音がした。
(離れなきゃいけない。――でも)
何度も自分に言い聞かせた言葉が、唇の端でほどける。
息が上がって、喉の奥が熱い。
胸の奥に刺さったままの言葉が、とうとう形になって落ちた。
「……私、やっぱり――雄ちゃんとは、離れられない」
掠れた声で告げた瞬間、彼の腕の力がわずかに増した。
どこかで犬が吠え、秋の夜風が、二人の間をすり抜けていった。