それぞれの幸せ
守っているつもりで、――手放せない。
百合香は、次の誕生日で三十になる。
それでも彼女は、結婚の話をいっさい口にしなかった。
以前、腕の中で言った「影の女でいい」という言葉を、まだ守っているみたいに。
結婚はできない。
それでも、他の男のものになるのだけは許せない。
一度手放して、取り戻した瞬間から……もう、理屈ではどうにもならなかった。
その一方で、先日の雪絵の、「覚えてて……くれたの?」という笑顔が、頭の奥に残って離れなかった。
彼女の誕生日は、三井に言われて形だけ祝ったに過ぎないのに、あの笑顔は本当に堪えた。
雪絵の二十八という年も、祝って終わりにできる年齢じゃない。
だが――。
だからといって、今の雄二には、百合香を選ぶことも、雪絵をこのまま待たせ続けることも、自らの選択ではままならないのだ。
本当は、百合香と結婚したい。
それが許されないと分かっていても、最初から諦められる程度なら――取り戻したりしない。
(俺は……お嬢さんと結婚させられるのか?)
おそらくそうなるのだろう。
三井が雪絵の年齢を気にするように、了道もまた――彼女の誕生日が近づくたび、言葉を重くしてきた。
『いつまで〝預かり〟のままにするつもりだ?』
そんな電話が増え、呼び出しの間隔が短くなる。
雪絵が二十五を越えた頃からじわじわと強まっていた圧は、もう――臨界点に見えた。
そのとき、まるで雄二の迷いを見透かしたみたいに、胸ポケットの携帯が震えた。
画面に出た名前は――葛西了道。
もう逃げ道はない。
雄二は一度だけ目を閉じて、通話ボタンを押した。
***
その日の午後、仕事を終える少し前。
事務所の電話が鳴った。
書類をまとめていた雪絵は、反射的に受話器を取る。
「はい、川崎土建、事務の葛城です」
いつも通りの文言で電話に応じながらも、胸の奥が《《ひやり》》とした。
相手の声を聞く前から、ナンバーディスプレイに表示された番号で、誰からなのか分かってしまったからだ。
『雪絵か』
低く、抑えた声。
聞き慣れたその声音に、背筋が伸びる。
「……はい、雪絵です。了道おじちゃん」
『そろそろ仕事、終わる時間だよな?』
用件を聞くまでもなかった。
理由を問う余地も、与えられない。
「今日も定時で上がれそうなので……十七時には終われそうです」
『そうか』
それだけで、話は終わった。
一拍置いて、了道は続ける。
『終わったら、千崎の迎えでそのままうちへ来い。千崎にも話は通してある』
(――やっぱり)
雪絵は、胸の内で小さく吐息を落とした。
「……分かりました」
『いいな? 必ず二人で来るんだぞ?』
その念押しで、了道が何を言いたいのか大体分かってしまう。
今までゆるゆると躱してきた千崎雄二との曖昧な関係にピリオドを打つための、逃げ道を塞ぐための言い方だと、雪絵は思った。
「二人で? 私だけじゃ……ダメなの?」
分かっていて、ただの里帰りの誘いではないの? と惚けてみたけれど、ダメだった。
『雪絵だけじゃだめだ。二人に話があるからな』
その一言で、確信を得るには十分だった。
受話器を置いたあとも、雪絵はしばらく、受話器に乗せた手が離せなかった。
川崎社長がこちらを見つめているけれど、うまく立ち回れないまま数秒間――。
「今の電話、葛西組長から?」
問われた言葉に、「……はい」と答えるので手一杯だった。
行った先で何を言われるのか。
分からないわけじゃない。
ここ数年、誕生日が近付くたび、同じ空気を感じてきた。
言葉にされない圧。
先延ばしにされてきた答え。
(……了道おじちゃん、とうとう我慢できなくなったんだ)
そう思った瞬間、心が不思議と静まった。
怖くないわけじゃない。
でも――もう、いつまでも現状を続けていける年齢じゃないことも、雪絵自身が一番よく分かっている。
百合香は、次の誕生日で三十になる。
それでも彼女は、結婚の話をいっさい口にしなかった。
以前、腕の中で言った「影の女でいい」という言葉を、まだ守っているみたいに。
結婚はできない。
それでも、他の男のものになるのだけは許せない。
一度手放して、取り戻した瞬間から……もう、理屈ではどうにもならなかった。
その一方で、先日の雪絵の、「覚えてて……くれたの?」という笑顔が、頭の奥に残って離れなかった。
彼女の誕生日は、三井に言われて形だけ祝ったに過ぎないのに、あの笑顔は本当に堪えた。
雪絵の二十八という年も、祝って終わりにできる年齢じゃない。
だが――。
だからといって、今の雄二には、百合香を選ぶことも、雪絵をこのまま待たせ続けることも、自らの選択ではままならないのだ。
本当は、百合香と結婚したい。
それが許されないと分かっていても、最初から諦められる程度なら――取り戻したりしない。
(俺は……お嬢さんと結婚させられるのか?)
おそらくそうなるのだろう。
三井が雪絵の年齢を気にするように、了道もまた――彼女の誕生日が近づくたび、言葉を重くしてきた。
『いつまで〝預かり〟のままにするつもりだ?』
そんな電話が増え、呼び出しの間隔が短くなる。
雪絵が二十五を越えた頃からじわじわと強まっていた圧は、もう――臨界点に見えた。
そのとき、まるで雄二の迷いを見透かしたみたいに、胸ポケットの携帯が震えた。
画面に出た名前は――葛西了道。
もう逃げ道はない。
雄二は一度だけ目を閉じて、通話ボタンを押した。
***
その日の午後、仕事を終える少し前。
事務所の電話が鳴った。
書類をまとめていた雪絵は、反射的に受話器を取る。
「はい、川崎土建、事務の葛城です」
いつも通りの文言で電話に応じながらも、胸の奥が《《ひやり》》とした。
相手の声を聞く前から、ナンバーディスプレイに表示された番号で、誰からなのか分かってしまったからだ。
『雪絵か』
低く、抑えた声。
聞き慣れたその声音に、背筋が伸びる。
「……はい、雪絵です。了道おじちゃん」
『そろそろ仕事、終わる時間だよな?』
用件を聞くまでもなかった。
理由を問う余地も、与えられない。
「今日も定時で上がれそうなので……十七時には終われそうです」
『そうか』
それだけで、話は終わった。
一拍置いて、了道は続ける。
『終わったら、千崎の迎えでそのままうちへ来い。千崎にも話は通してある』
(――やっぱり)
雪絵は、胸の内で小さく吐息を落とした。
「……分かりました」
『いいな? 必ず二人で来るんだぞ?』
その念押しで、了道が何を言いたいのか大体分かってしまう。
今までゆるゆると躱してきた千崎雄二との曖昧な関係にピリオドを打つための、逃げ道を塞ぐための言い方だと、雪絵は思った。
「二人で? 私だけじゃ……ダメなの?」
分かっていて、ただの里帰りの誘いではないの? と惚けてみたけれど、ダメだった。
『雪絵だけじゃだめだ。二人に話があるからな』
その一言で、確信を得るには十分だった。
受話器を置いたあとも、雪絵はしばらく、受話器に乗せた手が離せなかった。
川崎社長がこちらを見つめているけれど、うまく立ち回れないまま数秒間――。
「今の電話、葛西組長から?」
問われた言葉に、「……はい」と答えるので手一杯だった。
行った先で何を言われるのか。
分からないわけじゃない。
ここ数年、誕生日が近付くたび、同じ空気を感じてきた。
言葉にされない圧。
先延ばしにされてきた答え。
(……了道おじちゃん、とうとう我慢できなくなったんだ)
そう思った瞬間、心が不思議と静まった。
怖くないわけじゃない。
でも――もう、いつまでも現状を続けていける年齢じゃないことも、雪絵自身が一番よく分かっている。