それぞれの幸せ
視線を落とすと、机の端に置いたカレンダーに、小さく丸がつけてある。
つい先日、何気なく印をつけた、自分の誕生日。
あの日、雄二が差し出してくれたイチゴのショートケーキと、白いチューリップが一輪。
ネットで調べてみたら、白いチューリップの花言葉は「新しい愛」「失われた愛」「失恋」だった。雄二がそれを知ったうえで自分にその花を贈ってくれたのかどうかは分からない。
新しい愛、という意味でくれたのなら望みはある。
でも、雪絵にはどうしても後者の花言葉ばかりが頭に入ってきて、『俺を愛しても不幸になるだけですよ』と言われているように感じられた。
もらったときはただただ嬉しかった花は、花言葉を知ったと同時にどう受け取ったらいいのか分からない贈り物になった。
「覚えてて……くれたの?」と、思わず口にした自分の声が、今になって胸を刺す。
(千崎さん……)
あの人は、何も言わない。
だからこそ、雪絵はずっと、待つことを選んできた。
でも――。
今日の電話は、その選択を続けることを、許してくれそうになかった。
雪絵は、そっと受話器から手を放し、壁の時計を見つめた。
定時まで、あと三十分。
その時間が、ひどく短く感じられた。
***
定時のチャイムが鳴る。本来ならば、終業時刻の少し前から片づけを始めている雪絵だったけれど、今日は何となく気が重くて、鳴ってから席を立った。
外に迎えが来ていることは分かっている。
雄二は、いつも定時前には会社前の路上に待機してくれている。
そんな彼をあまり待たせたくなくて、いつもなら終業の合図があるなり急いで外へ出るようにしていた。
でも――。
今日だけはきっと、雄二も雪絵が早く出てくることを望んではいないだろう。
「お先に失礼します」
「はい、お疲れ様。気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます」
いつもと同じ挨拶。
なのに、声が少しだけ硬いことを、雪絵自身が一番よく分かっていた。
上着を羽織り、バッグを肩に掛けて事務所を出る。
川崎土建の前の通りは、帰宅ラッシュの車で混み始めていた。
――そんな中、案の定いつも通りの場所に、迎えはもう来ていた。
見慣れた黒塗りのセダンタイプの高級車に、雪絵は小さく吐息を落とす。
雪絵が小走りに車へ近づくなり、運転席から降りてきた男と、目が合った。
千崎雄二。
スーツ姿のまま、無駄のない動きでこちらへ歩いてくる。
仕事帰りの顔だ。
いつもと、何も変わらない。
「……お疲れさまです」
雪絵が先に口を開いた。
「お疲れさまです。……寒くなりましたね」
当たり障りのない言葉。
それしか、出てこなかった。
「ええ」
それだけ返して、雄二は後部座席のドアを開けた。
――助手席じゃない。
それが安全のためだというのは分かっている。
助手席が一番危ないことも、運転席背後の後部シートが一番安全だと言われていることも――。
三井だって雪絵を車に乗せる時にはいつも運転席のすぐ後ろのリアシートへ座らせてシートベルトを掛けてくれていた。
だが、雄二は三井みたいに雪絵を甘やかしてはくれない。ドアは開けてくれるけれど、シートベルトは自分でしなくてはいけない。
そんな些細なことに、今日はいつも以上に胸が詰まる。
でも、何も言えない。
雪絵が無言で後部座席に乗り込み、シートベルトをするのを視界の端で追うなり、ドアをそっと閉じて雄二が運転席へ戻る。
エンジンがかかる音が、やけに大きく響いた。
車は、ゆっくりと走り出した。
ラジオも、音楽も、ない。
ただ、タイヤがアスファルトを擦る音だけが続く。
沈黙が重い。
けれど、雪絵はそれを破る勇気がなかった。
ルームミラー越しにちょっとだけ見える雄二の顔は、眼鏡で表情がよく分からない。
(……千崎さんにも、了道おじちゃんから連絡……いってるよね)
了道の家に呼ばれる意味。
二人で、という条件。
雄二が、その真意を分からないはずがない。
つい先日、何気なく印をつけた、自分の誕生日。
あの日、雄二が差し出してくれたイチゴのショートケーキと、白いチューリップが一輪。
ネットで調べてみたら、白いチューリップの花言葉は「新しい愛」「失われた愛」「失恋」だった。雄二がそれを知ったうえで自分にその花を贈ってくれたのかどうかは分からない。
新しい愛、という意味でくれたのなら望みはある。
でも、雪絵にはどうしても後者の花言葉ばかりが頭に入ってきて、『俺を愛しても不幸になるだけですよ』と言われているように感じられた。
もらったときはただただ嬉しかった花は、花言葉を知ったと同時にどう受け取ったらいいのか分からない贈り物になった。
「覚えてて……くれたの?」と、思わず口にした自分の声が、今になって胸を刺す。
(千崎さん……)
あの人は、何も言わない。
だからこそ、雪絵はずっと、待つことを選んできた。
でも――。
今日の電話は、その選択を続けることを、許してくれそうになかった。
雪絵は、そっと受話器から手を放し、壁の時計を見つめた。
定時まで、あと三十分。
その時間が、ひどく短く感じられた。
***
定時のチャイムが鳴る。本来ならば、終業時刻の少し前から片づけを始めている雪絵だったけれど、今日は何となく気が重くて、鳴ってから席を立った。
外に迎えが来ていることは分かっている。
雄二は、いつも定時前には会社前の路上に待機してくれている。
そんな彼をあまり待たせたくなくて、いつもなら終業の合図があるなり急いで外へ出るようにしていた。
でも――。
今日だけはきっと、雄二も雪絵が早く出てくることを望んではいないだろう。
「お先に失礼します」
「はい、お疲れ様。気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます」
いつもと同じ挨拶。
なのに、声が少しだけ硬いことを、雪絵自身が一番よく分かっていた。
上着を羽織り、バッグを肩に掛けて事務所を出る。
川崎土建の前の通りは、帰宅ラッシュの車で混み始めていた。
――そんな中、案の定いつも通りの場所に、迎えはもう来ていた。
見慣れた黒塗りのセダンタイプの高級車に、雪絵は小さく吐息を落とす。
雪絵が小走りに車へ近づくなり、運転席から降りてきた男と、目が合った。
千崎雄二。
スーツ姿のまま、無駄のない動きでこちらへ歩いてくる。
仕事帰りの顔だ。
いつもと、何も変わらない。
「……お疲れさまです」
雪絵が先に口を開いた。
「お疲れさまです。……寒くなりましたね」
当たり障りのない言葉。
それしか、出てこなかった。
「ええ」
それだけ返して、雄二は後部座席のドアを開けた。
――助手席じゃない。
それが安全のためだというのは分かっている。
助手席が一番危ないことも、運転席背後の後部シートが一番安全だと言われていることも――。
三井だって雪絵を車に乗せる時にはいつも運転席のすぐ後ろのリアシートへ座らせてシートベルトを掛けてくれていた。
だが、雄二は三井みたいに雪絵を甘やかしてはくれない。ドアは開けてくれるけれど、シートベルトは自分でしなくてはいけない。
そんな些細なことに、今日はいつも以上に胸が詰まる。
でも、何も言えない。
雪絵が無言で後部座席に乗り込み、シートベルトをするのを視界の端で追うなり、ドアをそっと閉じて雄二が運転席へ戻る。
エンジンがかかる音が、やけに大きく響いた。
車は、ゆっくりと走り出した。
ラジオも、音楽も、ない。
ただ、タイヤがアスファルトを擦る音だけが続く。
沈黙が重い。
けれど、雪絵はそれを破る勇気がなかった。
ルームミラー越しにちょっとだけ見える雄二の顔は、眼鏡で表情がよく分からない。
(……千崎さんにも、了道おじちゃんから連絡……いってるよね)
了道の家に呼ばれる意味。
二人で、という条件。
雄二が、その真意を分からないはずがない。