それぞれの幸せ
 運転席の真後ろからは、ミラー越しの情報くらいしか、雄二の〝今〟を推し量る材料がない。
 ハンドルを握る手は、いつも通り安定している。
 視線はおそらく前だけを見ていて、ミラー越しにさえ視線がかち合わないことからも、こちらを見ようともしていないことが分かる。

 それが――雄二なりの〝答え〟のように思えた。

「……今日、会社の方へ了道おじちゃんから、電話がありました」

 沈黙に耐えきれず、雪絵はそう告げた。

「ええ。……私にも」

 短い返事。
 感情は、読めない。

「……」

 それ以上、言葉が続かない。

 この八年間。
 同じ屋根の下で暮らしてきた。
 世話をされて、守られて、距離を保たれて。

 でも――。
 こうして一緒の空間にいても、今みたいに何を話せばいいのか分からない時がある。

 車は、見慣れた道を抜けていく。
 葛西了道の家へ続く道。

 雪絵は、膝の上で手を重ねた。
 その指先が、いつも以上に冷えていた。

(今日で……何かが、決まる)

 逃げられない。
 待ち続けるという選択も、もう許されない。

 シート越しに雄二の後ろ姿を見つめながら、雪絵は静かに息を吸った。

 この沈黙が、この距離が、この時間が――。

 きっと、――最後に与えられた猶予なのだ。


***


 車は、ゆるやかに減速しながら、見慣れた門近くに用意された駐車スペースへ停まった。

 葛西(かさい)了道(りょうどう)の家。
 雪絵が長い年月を過ごした場所であり、同時に逃げ場のない場所でもある。

 エンジンが切られる。
 それだけで、胸の奥が小さく軋んだ。
 家の周辺をぐるりと囲む塀のあちらこちらに監視カメラが設置されていることは、雪絵も知っている。
 すでに中の人間には、自分たちの来訪が伝わっているだろう。

 雄二はちらりと後部シートの雪絵をミラー越しに見遣ると、「少し待っていてください」と告げて先に降り、門扉のインターホンに手を伸ばした。
 こんな時、三井なら雪絵とともに車を降りただろう。
 雄二のこの線引きは、雪絵を外気にさらさせる時間を極力少なくするための配慮とも取れたし、雪絵と並ぶ時間をできるだけ抑えたいと言っているようにも思えた。
 雪絵は後部座席でシートベルトを外しながら、ぼんやりとその背中を見つめる。

 ――必要最低限のことしか告げてくれない広い背中。

 たかだか一メートルもない距離が、やけに遠く感じられて胸の奥がきゅっと痛む。

 インターホン越しに短いやり取りをした気配があったあと、門が静かに開いて中からスーツ姿の男が顔を出した。

「……どうぞ」
 そこでようやく車の方へ戻ってきた雄二が、後部座席のドアを開けて雪絵を降ろしてくれる。
 その声は、相変わらず淡々としていた。

「……ありがとうございます」
 雪絵は小さく頭を下げて車を降りた。
 三井ならば手を差し出すようにして雪絵を労わってくれるが、雄二はただ見守るだけ。
 転びそうになったりすれば即座に手が差し伸べられるけれど、そんなことでもない限り、雄二は雪絵の身体に触れることはなかった。
 足元の砂利が、寂しげに乾いた音を立てる。

 黄昏時(たそがれどき)の空気は冴え冴えと冷えていて、頬に触れる風がひどく現実的だった。
 ここまで来てしまった……という感覚だけが、じわじわと押し寄せてくる。

 玄関へ向かう途中、ふいに、雄二が歩調を緩めた。
 それに合わせて、雪絵も自然と足を止める。

「……緊張、してますか」

 ぽつりと落とされた言葉。
 独り言に近い、問いかけ。

 雪絵は、一瞬だけ迷ってから、小さく頷いた。

「……少しだけ」

 嘘ではない。
 でも、本当は――少しどころじゃない。
 雪絵は雄二を苦しめる原因になってしまっている。そうして多分、自分はそのことを知りながら、さらに彼を追い詰める決断をしてしまう。
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