それぞれの幸せ
怖さよりも、決めてきた道を口に出せた安堵の方が、今は大きい。
己の未来を左右する話をされているというのに、雪絵のそばに座る雄二は、何も言わなかった。
表情も変わらない。
眼鏡の奥の視線も、伏せられたまま。
けれど、雪絵には分かる。
彼が、何も感じていないはずがないことを。
了道が、ゆっくりと雄二の方へ顔を向けた。
「千崎」
名を呼ばれただけで、場の重心が動く。
「はい」
「いい年をした男女が、八年もひとつ屋根の下で暮らしている」
静かな声音だった。
だが、逃がさない口調だ。
「普通に考えて――何もない方がおかしい」
雄二が、わずかに口を開きかける。
だが、それを遮ったのは、了道だった。まるで、言い訳をさせるつもりはない、とでも言っているかのようだった。
「たとえ本当に何もなかったとしても……周りは、そうは見ない」
机に置かれていた了道の指が、ゆっくりと組まれる。
「雪絵はな、もうそういう目で見られている。……お前と一緒にいる、〝お前の女〟だ、と」
視線が、鋭くなる。
「てめぇが責任を取らずに、誰が取るんだ?」
その瞬間――雄二が、「ですが私には……」と口を開こうとした。
だが。
「……お待ちください」
それを制したのは、雪絵だった。
その場の皆が押し黙ってしまうほど、雪絵の声音は凛としていた。
そこに迷いは、微塵も感じられない。
「千崎さんに……愛する方がいらっしゃることは、承知しています」
雄二の肩が、ほんのわずかに揺れた。
それでも、彼は何も言わない。
「それを分かったうえで――私は、千崎さんと……言え、《《雄二さん》》と……結婚したいです」
あえて千崎の呼び名を変えた雪絵に、了道の眉がぴくりと動く。
「ただし……」
雪絵は、了道にすら口を挟ませないという明確な意思を持って、そこで間を置いた。
自分が愛する人を縛り付けるために……今から見るであろう地獄から逃げないための、わずかな間。
「ひとつだけ、条件があります」
「……条件?」
了道が低く、どこか訝しさを含んだ声音でつぶやく。
雪絵は、視線を逸らさなかった。
覚悟を決めたときから、この言葉は何度も胸の中で繰り返してきたからだ。
「その方と、雄二さんの関係を――断ち切る真似はしません」
はっきりと、告げる。
座敷の空気が、わずかに揺れた。
「おい、雪絵。それじゃぁお前は……」
了道が眉根を寄せて雪絵の言葉を遮ろうとしたが、雪絵はそんな了道に小さく首を振る。
「極道の妻は、そんな細かいことは気にしないとおっしゃったのは了道おじちゃんじゃないですか」
雄二と同居が始まって間もないころ。聞くつもりはなく聞いてしまった場で、他ならぬ目の前の育ての親が、雄二に放っていた言葉だ。
それを指摘された了道が押し黙るのを見て、雪絵は続ける。
「――ですが」
そこで呼吸を整えるように、スッと背筋を伸ばした。
「子供だけは……私との間だけにしていただきます」
一拍。
「その方との関係に口出しをしない代わりに、子を成すのは――正妻である私とだけにしていただきたいのです」
それは、縋る言葉じゃない。
取り引きでも、お願いでもない。
自分が選んだ条件だった。
了道は、しばらく雪絵を見つめていた。
その視線は、厳しくもあり――どこか試すようでもある。
「……雪絵」
名を呼ばれても、雪絵は微動だにしなかった。
佳代の言葉が、脳裏をよぎる。
――逃げずに、聞いて。変に遠慮はしないこと。
雪絵は、覚悟を決めたのだ。
普段ほわりとしている印象があるから忘れがちだが、彼女は一度決めたら、簡単には曲げない。
それを、了道は誰よりも知っている。
雄二は、相変わらず何も言わなかった。
だが、その沈黙こそが、事の重さを物語っていた。
己の未来を左右する話をされているというのに、雪絵のそばに座る雄二は、何も言わなかった。
表情も変わらない。
眼鏡の奥の視線も、伏せられたまま。
けれど、雪絵には分かる。
彼が、何も感じていないはずがないことを。
了道が、ゆっくりと雄二の方へ顔を向けた。
「千崎」
名を呼ばれただけで、場の重心が動く。
「はい」
「いい年をした男女が、八年もひとつ屋根の下で暮らしている」
静かな声音だった。
だが、逃がさない口調だ。
「普通に考えて――何もない方がおかしい」
雄二が、わずかに口を開きかける。
だが、それを遮ったのは、了道だった。まるで、言い訳をさせるつもりはない、とでも言っているかのようだった。
「たとえ本当に何もなかったとしても……周りは、そうは見ない」
机に置かれていた了道の指が、ゆっくりと組まれる。
「雪絵はな、もうそういう目で見られている。……お前と一緒にいる、〝お前の女〟だ、と」
視線が、鋭くなる。
「てめぇが責任を取らずに、誰が取るんだ?」
その瞬間――雄二が、「ですが私には……」と口を開こうとした。
だが。
「……お待ちください」
それを制したのは、雪絵だった。
その場の皆が押し黙ってしまうほど、雪絵の声音は凛としていた。
そこに迷いは、微塵も感じられない。
「千崎さんに……愛する方がいらっしゃることは、承知しています」
雄二の肩が、ほんのわずかに揺れた。
それでも、彼は何も言わない。
「それを分かったうえで――私は、千崎さんと……言え、《《雄二さん》》と……結婚したいです」
あえて千崎の呼び名を変えた雪絵に、了道の眉がぴくりと動く。
「ただし……」
雪絵は、了道にすら口を挟ませないという明確な意思を持って、そこで間を置いた。
自分が愛する人を縛り付けるために……今から見るであろう地獄から逃げないための、わずかな間。
「ひとつだけ、条件があります」
「……条件?」
了道が低く、どこか訝しさを含んだ声音でつぶやく。
雪絵は、視線を逸らさなかった。
覚悟を決めたときから、この言葉は何度も胸の中で繰り返してきたからだ。
「その方と、雄二さんの関係を――断ち切る真似はしません」
はっきりと、告げる。
座敷の空気が、わずかに揺れた。
「おい、雪絵。それじゃぁお前は……」
了道が眉根を寄せて雪絵の言葉を遮ろうとしたが、雪絵はそんな了道に小さく首を振る。
「極道の妻は、そんな細かいことは気にしないとおっしゃったのは了道おじちゃんじゃないですか」
雄二と同居が始まって間もないころ。聞くつもりはなく聞いてしまった場で、他ならぬ目の前の育ての親が、雄二に放っていた言葉だ。
それを指摘された了道が押し黙るのを見て、雪絵は続ける。
「――ですが」
そこで呼吸を整えるように、スッと背筋を伸ばした。
「子供だけは……私との間だけにしていただきます」
一拍。
「その方との関係に口出しをしない代わりに、子を成すのは――正妻である私とだけにしていただきたいのです」
それは、縋る言葉じゃない。
取り引きでも、お願いでもない。
自分が選んだ条件だった。
了道は、しばらく雪絵を見つめていた。
その視線は、厳しくもあり――どこか試すようでもある。
「……雪絵」
名を呼ばれても、雪絵は微動だにしなかった。
佳代の言葉が、脳裏をよぎる。
――逃げずに、聞いて。変に遠慮はしないこと。
雪絵は、覚悟を決めたのだ。
普段ほわりとしている印象があるから忘れがちだが、彼女は一度決めたら、簡単には曲げない。
それを、了道は誰よりも知っている。
雄二は、相変わらず何も言わなかった。
だが、その沈黙こそが、事の重さを物語っていた。