それぞれの幸せ
百合香との祝いの夜から数日後。
法人営業課で扱ったある融資案件の稟議書が回ってきた。融資を決裁に回すための書類であり、銀行員にとっては信用と責任の象徴とも言えるものだ。
そこに記された数字を目にして、雄二は凍りついた。
「……これは」
申請金額も返済計画も、彼が起案した内容とはまるで違っていた。帳簿の数字まで《《整え》》られ、全くの別物に仕立て上げられていたのだ。
「荻野課長……これは、一体どういうことですか?」
雄二は稟議書を抱え、上司の机に向かった。席に近付いてくる雄二を見るなり、荻野は小さく吐息を落とし、「小会議室で話を聞こう」と言い放つ。
その言動で、雄二はこの話が皆の前でされてはまずいと荻野が認識しているのだと理解した。
小会議室に入り、扉を閉ざすなり雄二は稟議書を荻野の目の前に置いた。
「私は、こんな稟議書を書いた覚えはありません」
そんな雄二の真っ直ぐな眼差しを受け、荻野課長は冷ややかに笑った。
「若いな、千崎。現実を知らん」
その言葉に雄二が口を開くより早く、荻野が言い募る。
「お前は書いた覚えがないと言うがな、千崎。現にその稟議書の起案者の欄にサインをしているのはお前だろう?」
「それはそうですが……! これは私が作成した内容とは明らかに違います!」
「だからお前は現実を知らん若造だと言うんだよ。こうなってしまってはもうお前にどうこうできる段階じゃないと何故分からない? 細かいことは気にするな。数字を〝整える〟なんていうのはうちでは常識だからな。大企業の系列相手の融資額に多少の手心を加えることなど、どこの支店でもやっていることだ」
「ご冗談でしょう! これは明らかに不正です!」
「不正? いや、〝正しい数字〟に直しただけだよ。……それに、稟議書を起案した責任はお前にあるんだ、千崎。決裁が通ったら、表向きは〝主任の千崎が整えた〟案件ということになる」
悪びれた様子もなくするするとそんなことを言ってのける荻野に、雄二は唇を噛みしめた。
――気が付けば、自分は不正の片棒を担がされた人間にされている。
このままでは納得できない。
雄二は決裁が回る前に、顧問弁護士へ直接相談を持ちかけた。
応接室で向かい合った初老の弁護士は、稟議書を一瞥するなり鼻を鳴らした。
「署名は千崎さん、あなたですよね? ならば責任はあなたにある」
「ち、違います! 荻野課長が数字を勝手に――」
「証拠は? あなたが書いたものと違う、と主張するだけでは通りませんよ? 現に残っているのは〝あなたの署名入りの稟議書〟と〝それに見合う資料〟だけです」
「そ、それは……」
「実際、あなたのデータも拝見しましたが――残っていたのは、あなた言うところの〝改竄後〟のものばかりでしたね」
老獪な眼差しが雄二を射抜いた。
目の前の男が言うように、あのあと雄二が稟議書を作るに当たって使用したはずの資料は全て、〝整えられた数字〟の方へ合わせられたものに差し替えられていて、証拠と呼べる書類が綺麗さっぱり姿を消していたのだ。
雄二のパソコンの中のデータですらいじられたようで、証拠がないと言い張られてしまえば、反論のしようがない状態にされていた。
「もしこれが公になれば、不正をしたのはあなたということになる」
言葉を失った雄二に、弁護士は声を低めて囁いた。
「このまま大人しくしていれば主任として順調に出世できますよ。――逆にここで波風を立てれば、あなたの銀行員としての未来は終わりです」
ねっとりとしいた嫌な物言いだった。
反論の余地など残していないくせに、どうやってこれ以上の波風を立てられると言うのだろう。
……だが、荻野のみならず、顧問弁護士にまで話を持ちかけたことが気に入らなかったんだろう。
数日もしないうちに、彼の周囲は冷ややかな視線に満ち、課長や支店長からも「厄介者」として扱われるようになった。
真っ直ぐに正義を信じたはずのその行動は、何の成果も生まなかった。
――法も、正義も、結局は強い者の味方にしかならない。
胸に澱のようにその思いが沈殿した。
法人営業課で扱ったある融資案件の稟議書が回ってきた。融資を決裁に回すための書類であり、銀行員にとっては信用と責任の象徴とも言えるものだ。
そこに記された数字を目にして、雄二は凍りついた。
「……これは」
申請金額も返済計画も、彼が起案した内容とはまるで違っていた。帳簿の数字まで《《整え》》られ、全くの別物に仕立て上げられていたのだ。
「荻野課長……これは、一体どういうことですか?」
雄二は稟議書を抱え、上司の机に向かった。席に近付いてくる雄二を見るなり、荻野は小さく吐息を落とし、「小会議室で話を聞こう」と言い放つ。
その言動で、雄二はこの話が皆の前でされてはまずいと荻野が認識しているのだと理解した。
小会議室に入り、扉を閉ざすなり雄二は稟議書を荻野の目の前に置いた。
「私は、こんな稟議書を書いた覚えはありません」
そんな雄二の真っ直ぐな眼差しを受け、荻野課長は冷ややかに笑った。
「若いな、千崎。現実を知らん」
その言葉に雄二が口を開くより早く、荻野が言い募る。
「お前は書いた覚えがないと言うがな、千崎。現にその稟議書の起案者の欄にサインをしているのはお前だろう?」
「それはそうですが……! これは私が作成した内容とは明らかに違います!」
「だからお前は現実を知らん若造だと言うんだよ。こうなってしまってはもうお前にどうこうできる段階じゃないと何故分からない? 細かいことは気にするな。数字を〝整える〟なんていうのはうちでは常識だからな。大企業の系列相手の融資額に多少の手心を加えることなど、どこの支店でもやっていることだ」
「ご冗談でしょう! これは明らかに不正です!」
「不正? いや、〝正しい数字〟に直しただけだよ。……それに、稟議書を起案した責任はお前にあるんだ、千崎。決裁が通ったら、表向きは〝主任の千崎が整えた〟案件ということになる」
悪びれた様子もなくするするとそんなことを言ってのける荻野に、雄二は唇を噛みしめた。
――気が付けば、自分は不正の片棒を担がされた人間にされている。
このままでは納得できない。
雄二は決裁が回る前に、顧問弁護士へ直接相談を持ちかけた。
応接室で向かい合った初老の弁護士は、稟議書を一瞥するなり鼻を鳴らした。
「署名は千崎さん、あなたですよね? ならば責任はあなたにある」
「ち、違います! 荻野課長が数字を勝手に――」
「証拠は? あなたが書いたものと違う、と主張するだけでは通りませんよ? 現に残っているのは〝あなたの署名入りの稟議書〟と〝それに見合う資料〟だけです」
「そ、それは……」
「実際、あなたのデータも拝見しましたが――残っていたのは、あなた言うところの〝改竄後〟のものばかりでしたね」
老獪な眼差しが雄二を射抜いた。
目の前の男が言うように、あのあと雄二が稟議書を作るに当たって使用したはずの資料は全て、〝整えられた数字〟の方へ合わせられたものに差し替えられていて、証拠と呼べる書類が綺麗さっぱり姿を消していたのだ。
雄二のパソコンの中のデータですらいじられたようで、証拠がないと言い張られてしまえば、反論のしようがない状態にされていた。
「もしこれが公になれば、不正をしたのはあなたということになる」
言葉を失った雄二に、弁護士は声を低めて囁いた。
「このまま大人しくしていれば主任として順調に出世できますよ。――逆にここで波風を立てれば、あなたの銀行員としての未来は終わりです」
ねっとりとしいた嫌な物言いだった。
反論の余地など残していないくせに、どうやってこれ以上の波風を立てられると言うのだろう。
……だが、荻野のみならず、顧問弁護士にまで話を持ちかけたことが気に入らなかったんだろう。
数日もしないうちに、彼の周囲は冷ややかな視線に満ち、課長や支店長からも「厄介者」として扱われるようになった。
真っ直ぐに正義を信じたはずのその行動は、何の成果も生まなかった。
――法も、正義も、結局は強い者の味方にしかならない。
胸に澱のようにその思いが沈殿した。