それぞれの幸せ
千崎雄二が不正を握りつぶされてから数日後、実家の町工場から、慌ただしい電話が入った。
父が、工場の奥で首を吊ったという連絡だった。
駆けつけた雄二を待っていたのは、泣き崩れる母・八重子の姿と、無残に冷たくなった父・幸太郎の亡骸。
呆然と立ち尽くす雄二の横で母がポツンとつぶやいた。
「銀行が融資さえしてくれていたら……」
父は会社のメインバンクである息子の勤め先『あすな銀行』を訪ねていたらしい。
手には工場の決算書と財務諸表。数字だけを見れば、経営は細々ながらも黒字を保っているのを雄二も知っていた。破綻の兆しなどどこにもなく、本来なら融資に値する内容だったはずだ。
「うちが……融資を断ったのか?」
思わず漏らしてしまったといった様子の母のつぶやきに雄二が問えば、八重子がハッとした顔をする。
「雄二には心配かけたくないってお父さんが……」
涙に泣き濡れた顔で嗚咽を漏らす母が奥の机から名刺を手に戻ってくる。
「この方が応対してくださったんだけど……」
名刺には雄二の上司、荻野課長の名があった。担当は雄二の部下の若手営業マンに任せていたはずだ。なのに何故?
雄二の胸の奥に不正融資を指摘した際の荻野課長の面倒くさげな顔が蘇る。荻野課長――いや、支店長までもが、雄二の存在を煙たがっていたのだ。要らないことを言いかねない雄二のことを警戒して、あすな銀行から追い出したそうだった。
実際雄二はこのままの状態が続くようならばあすなには見切りをつけ、転職するつもりで【退職願】を用意していた。あすなでの出世はもう見込めないと思ったし、雄二の昇進を自分のことみたいに喜んでくれた恋人――百合香のこと、そうして雄二の銀行員としての躍進ぶりを誇ってくれていた両親のことを思うと胸の奥にチクリとした痛みが走ったけれど、組織ぐるみでそういうことをする銀行なのだとしたら、いる価値はないと思ったのだ。
「この方がね、書類を一瞥するなり無言でパソコンの画面を見て……」
父は母にはついてくるなと言ったらしいのだが、どうにも様子がおかしかったので説得して付いて行ったの、と八重子が吐息を落とした。
口出しはするなと言われていたから夫の傍で静かに座っていた母だったのだが、目の前の銀行員はパソコンの画面に視線を流しながら言ったという。
『……個人のほうで、保証債務があるようですね』
淡々とした声でそう告げるなり端末の画面を閉じ、書類を机に戻したそうだ。
「保証債務? 父さんは誰かの連帯保証人になっていたのか?」
雄二の言葉に、母・八重子がビクッと肩を跳ねさせる。
「私は……よく分からないんだけど……お友達がお父さんを尋ねてきたことがあったから……もしかしたら……」
「その相手とは連絡が取れるのか?」
「分からないけど……多分取れなくなったんだと思う。……それからしばらくして家に変な電話が掛かってくるようになったの」
母の言葉を聞いて、雄二は(最悪だ)と思った。
恐らくはその〝お友達〟とやらが逃げて、連帯保証人の父の元へ取りたてが回ってきたのだ。
父・幸太郎は人のいい性格の、昔ながらの職人気質な人間で、頼まれると嫌といえないところがあった。
雄二が実家住まいをしていた頃は父の悪癖が出ないよう目を光らせていたのだが、別の場所へ住み、別々の仕事をするようになってからはそういうわけにもいかなくなっていた。その空隙を突いての出来事だったんだろう。
母・八重子は家長である父の言う事には口ごたえしない昭和の妻を絵に描いたような人だから、幸太郎が『応』といえばそうなってしまったのにも何となく頷けた。
その母が、父の様子がおかしいと、嫌がる旦那を説得して銀行まで付いていったというのだから、その時にはすでに父の様子は相当尋常でなかったということだろう。
「なんで……言ってくれなかったんだ」
今さら母を責めても仕方がないと分かっていてもつい口をついてしまった。
「ごめんなさい、雄二。お父さんが……どうしてもあなたにだけは心配かけたくないからって」
顔を覆って嗚咽を漏らす母が、「でも……こんなことになるって分かっていたら私……」と声を詰まらせ、謝罪の言葉を何度も何度も紡ぐ姿を見せられては、それ以上のことを言えるはずがなかった。
結局の所、荻野課長は父の保証債務を理由に、リスクが高すぎること、零細町工場への追加融資は難しいことを父に淡々と告げたらしい。
それでも父は食い下がり、カウンター台に額をこすりつけて何度も何度も頭を下げたという。だが、荻野はそれ以上一言も発さず、背もたれに深く身を沈めただけで、取り付く島はなかったという。
荻野はすげなく追い返したのが部下の千崎雄二の父親であることは承知していたはずだ。だが、彼は雄二に何も言ってはこなかった。
担当営業の若手部下くらいには一言あったのかも知れないが、とにかく雄二の耳には父親が窓口へ融資の相談に来たことすら微塵もはいってこなかったのだ。
(俺が……不正のことを気付かぬふりをしていたら……あるいは違っていたのか?)
恐らくはそんなことはなかっただろう。
荻野課長が告げた言葉の端々から、大手企業や、その関連業者は優遇するが、雄二の父の会社のような零細企業は切り捨てる姿勢が垣間見えたからだ。
父親も、「息子に恥をかかせまい」と思い、雄二には何も告げなかったし、母も父の意向を汲んだ。
その後、父は他の銀行にも足を運んだらしいのだが、結果は同じ。
どの銀行も、保証債務の話が出た途端に顔色を変え、冷たい言葉で門前払いをした。
結局、父の手に残ったのは――かつての友人のために背負った、裏金融の借金だけだった。
父が、工場の奥で首を吊ったという連絡だった。
駆けつけた雄二を待っていたのは、泣き崩れる母・八重子の姿と、無残に冷たくなった父・幸太郎の亡骸。
呆然と立ち尽くす雄二の横で母がポツンとつぶやいた。
「銀行が融資さえしてくれていたら……」
父は会社のメインバンクである息子の勤め先『あすな銀行』を訪ねていたらしい。
手には工場の決算書と財務諸表。数字だけを見れば、経営は細々ながらも黒字を保っているのを雄二も知っていた。破綻の兆しなどどこにもなく、本来なら融資に値する内容だったはずだ。
「うちが……融資を断ったのか?」
思わず漏らしてしまったといった様子の母のつぶやきに雄二が問えば、八重子がハッとした顔をする。
「雄二には心配かけたくないってお父さんが……」
涙に泣き濡れた顔で嗚咽を漏らす母が奥の机から名刺を手に戻ってくる。
「この方が応対してくださったんだけど……」
名刺には雄二の上司、荻野課長の名があった。担当は雄二の部下の若手営業マンに任せていたはずだ。なのに何故?
雄二の胸の奥に不正融資を指摘した際の荻野課長の面倒くさげな顔が蘇る。荻野課長――いや、支店長までもが、雄二の存在を煙たがっていたのだ。要らないことを言いかねない雄二のことを警戒して、あすな銀行から追い出したそうだった。
実際雄二はこのままの状態が続くようならばあすなには見切りをつけ、転職するつもりで【退職願】を用意していた。あすなでの出世はもう見込めないと思ったし、雄二の昇進を自分のことみたいに喜んでくれた恋人――百合香のこと、そうして雄二の銀行員としての躍進ぶりを誇ってくれていた両親のことを思うと胸の奥にチクリとした痛みが走ったけれど、組織ぐるみでそういうことをする銀行なのだとしたら、いる価値はないと思ったのだ。
「この方がね、書類を一瞥するなり無言でパソコンの画面を見て……」
父は母にはついてくるなと言ったらしいのだが、どうにも様子がおかしかったので説得して付いて行ったの、と八重子が吐息を落とした。
口出しはするなと言われていたから夫の傍で静かに座っていた母だったのだが、目の前の銀行員はパソコンの画面に視線を流しながら言ったという。
『……個人のほうで、保証債務があるようですね』
淡々とした声でそう告げるなり端末の画面を閉じ、書類を机に戻したそうだ。
「保証債務? 父さんは誰かの連帯保証人になっていたのか?」
雄二の言葉に、母・八重子がビクッと肩を跳ねさせる。
「私は……よく分からないんだけど……お友達がお父さんを尋ねてきたことがあったから……もしかしたら……」
「その相手とは連絡が取れるのか?」
「分からないけど……多分取れなくなったんだと思う。……それからしばらくして家に変な電話が掛かってくるようになったの」
母の言葉を聞いて、雄二は(最悪だ)と思った。
恐らくはその〝お友達〟とやらが逃げて、連帯保証人の父の元へ取りたてが回ってきたのだ。
父・幸太郎は人のいい性格の、昔ながらの職人気質な人間で、頼まれると嫌といえないところがあった。
雄二が実家住まいをしていた頃は父の悪癖が出ないよう目を光らせていたのだが、別の場所へ住み、別々の仕事をするようになってからはそういうわけにもいかなくなっていた。その空隙を突いての出来事だったんだろう。
母・八重子は家長である父の言う事には口ごたえしない昭和の妻を絵に描いたような人だから、幸太郎が『応』といえばそうなってしまったのにも何となく頷けた。
その母が、父の様子がおかしいと、嫌がる旦那を説得して銀行まで付いていったというのだから、その時にはすでに父の様子は相当尋常でなかったということだろう。
「なんで……言ってくれなかったんだ」
今さら母を責めても仕方がないと分かっていてもつい口をついてしまった。
「ごめんなさい、雄二。お父さんが……どうしてもあなたにだけは心配かけたくないからって」
顔を覆って嗚咽を漏らす母が、「でも……こんなことになるって分かっていたら私……」と声を詰まらせ、謝罪の言葉を何度も何度も紡ぐ姿を見せられては、それ以上のことを言えるはずがなかった。
結局の所、荻野課長は父の保証債務を理由に、リスクが高すぎること、零細町工場への追加融資は難しいことを父に淡々と告げたらしい。
それでも父は食い下がり、カウンター台に額をこすりつけて何度も何度も頭を下げたという。だが、荻野はそれ以上一言も発さず、背もたれに深く身を沈めただけで、取り付く島はなかったという。
荻野はすげなく追い返したのが部下の千崎雄二の父親であることは承知していたはずだ。だが、彼は雄二に何も言ってはこなかった。
担当営業の若手部下くらいには一言あったのかも知れないが、とにかく雄二の耳には父親が窓口へ融資の相談に来たことすら微塵もはいってこなかったのだ。
(俺が……不正のことを気付かぬふりをしていたら……あるいは違っていたのか?)
恐らくはそんなことはなかっただろう。
荻野課長が告げた言葉の端々から、大手企業や、その関連業者は優遇するが、雄二の父の会社のような零細企業は切り捨てる姿勢が垣間見えたからだ。
父親も、「息子に恥をかかせまい」と思い、雄二には何も告げなかったし、母も父の意向を汲んだ。
その後、父は他の銀行にも足を運んだらしいのだが、結果は同じ。
どの銀行も、保証債務の話が出た途端に顔色を変え、冷たい言葉で門前払いをした。
結局、父の手に残ったのは――かつての友人のために背負った、裏金融の借金だけだった。