それぞれの幸せ
第5章 家族という契約

第1節 千崎雪絵『幸せだと思っていた』

 雪絵は、自分が幸せなのだと思っていた。

 初めて愛した男――千崎雄二と結婚してからの生活は、拍子抜けするほど穏やかだった。
 劇的な出来事も、甘い言葉もない。ただ、毎日が淡々と続いていく。

 朝になれば雄二は雪絵を職場に送ってくれてから自らの仕事へ行き、夕方になれば雪絵を迎えに来てくれて一緒にこの家へ帰ってくる。
 決まった時間に食事を取り、短い会話を交わし、それぞれが風呂を済ませて寝室へ入る。

 それだけのこと。
 それだけのはずなのに、雪絵の心は不思議と満たされていた。

 夜、隣に横たわる体温がある。
 自分に触れる手がある。

 雄二は多くを語らない。
 優しい言葉を囁くことも、愛を口にすることもなかった。

 それでも、触れ方は丁寧だった。

 義務だから、と言われたことがある。
 子供を望むなら、きちんと向き合うと。
 そういう約束だから、と。
 眼鏡すら外さない雄二は、冷静に自分が組み敷いた雪絵の反応を観察しているようにすら感じられた。

 けれど雪絵には、その律儀さが誠実に思えた。

 肌に触れる掌は温かく、指先がなぞるたびに自分が雄二の〝妻〟なのだと実感できる。

 抱き寄せられる夜だけは、雄二の視線が確かに自分へ向いている気がした。

 雪絵にとって、そういう行為は雄二が初めてだった。
 でも、少なくとも雄二は雪絵の身体を労わるように抱いてくれたし、初っ端は痛かった行為も、二度・三度と肌を重ねるうち、快感を得られるようになった。
 雄二に触れられただけで〝女〟の部分が悦びに震え、口づけられただけで蜜口が甘く蕩けて雄二を〝欲しい〟と待ちわびる。
 そこへ彼の熱いものを受け入れる瞬間は、雄二が自分の身体に反応してくれているのだと実感することができる。それがたまらなく幸せで――その錯覚が、雪絵には何よりも嬉しかった。

 その時だけは、雄二から女性として求められているのだと思えた。
 必要とされているのだと思えた。

 だから、約束の週一よりも、雄二が自分に触れてくれる回数が増えることも苦ではなかったし、むしろ心のどこかで、期待もしていた。

 今日もまた、触れてもらえるかもしれないと。

 愛されているかどうかは分からない。
 でも、拒まれてはいない。

 それだけで、十分だと思えた。

 雄二はただ単に〝夫としての義務〟を果たしてくれているだけに過ぎないのかもしれない。
 でも――。
 毎晩のように抱いてくれる彼の誠実さを、雪絵は「別れを惜しんでくれているのだ」と思いたかった。

(雄二さん、三年以内に私との間に子ができたなら……別れられなくなるのですよ? それが分かって抱いてくれていますか?)

 雄二の熱い飛沫を胎内に受け入れながら、雪絵はいつも、そんなことをぼんやり思っていた――。


***


 雄二と雪絵が結婚をして、一年半が過ぎた。約束の期日のちょうど折り返し地点――。
 このところ、体調が万全ではない。朝晩と日中の寒暖差が大きく、風邪をひいたのかもしれない。
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