それぞれの幸せ
 今朝ほど顕著ではなかったにせよ、このところずっと食欲がなかったからか、ふらつきもいつもより酷い。
 下手に出社して、倒れたりしたら迷惑をかけてしまうから、「今日はお休みをしようと思います」と告げようとしたら、箸を置いた雄二に、先に声を掛けられた。

「……雪絵」
 名前を呼ばれて、雪絵は雄二を見つめる。
 お嬢さん、と呼ばれていた頃は遠い。
 結婚してからもしばらくは、雪絵さん、と距離を保った呼び方だった。
 けれど今は、ごく自然に「雪絵」と呼ばれる。
 それがいつからなのか、雪絵自身、正確には覚えていなかった。

「最近、ずっと食が細いな。昨夜も指摘したが、微熱も続いているだろう」

 淡々とした口調だった。
 責める色はない。

「ごめんなさい。季節の変わり目で……風邪をひいたみたいで……少し、だるくて……」

 そう答えると、雄二は短く息を吐き、雪絵を見た。

 一瞬の間を置いて、
「月のものも、半月以上遅れている」
 唐突な指摘に、雪絵は言葉を失った。
「あの……でも、それは」
「よくあることだとは知っている。体調を崩すと乱れがちだと言っていたな」
「はい」
「三井からも、そう聞いている……」
 ここでいきなり懐かしい名が出て、雪絵は(心配して三井に聞いてくれたのかな?)と思ってから……外で男性二人が自分の身体のことを話していると思うと、なんだか恥ずかしくなる。

「今日の仕事は休め。一緒に病院へ行こう」

 それは、どこか事務的にすら感じられる声音だった。
 それでも一緒に行く、と言われたことが、なぜだかとても嬉しかった。
 一人で行かなくていい。
 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

 朝食後すぐ、雄二に連れられて着いた建物を見上げたとき、雪絵は思わず言葉を失った。

「……あの、どうして産婦人科……?」

 てっきり内科に連れていかれると思っていた。
 思わずそう口にすると、雄二が不思議そうに首を傾げる。

「現状で、他の科に行く方がおかしいだろう?」

 問い返されて、雪絵は言葉に詰まる。
 内科だと思い込んでいたことを、うまく説明できなかった。

 雄二はそれ以上何も言わず、当然のことのように中へ進んでいく。
 雪絵は少し遅れて、その背中を追った。

 柔らかな色合いの待合室には、同じような年頃の女性たちが座っている。
 中には自分と同じように、旦那さんに付き添われている妊婦とおぼしきお腹の大きな女性の姿もある。

 その光景を見て、ようやく胸の奥がざわめいた。

 ――もしかして。

 受付に保険証を提出し、番号札を受け取ってから問診票を書く。

 検尿をするようにカップを渡され、指示通りに尿を提出してトイレから戻ってくると、雪絵は雄二が座るすぐ横へ腰を下ろして膝の上で両手を重ねた。

 ほどなくして、奥から事務的な声が響いた。

「――《《千崎》》雪絵さん」

 呼ばれて、ゆっくりと顔を上げる。

 その名前で呼ばれるのが、なんだか少し、誇らしかった。
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