それぞれの幸せ
――「雄ちゃん」
水曜の昼下がり。
週に一度、彼女の店――『ランジェリーショップYURIKA』のシャッターが下りるその日だけが、百合香の完全な休日だった。
百合香を《《住まわせている》》マンションのソファに腰を下ろした途端、彼女が飼っている愛猫の〝しろ〟が当然のように膝に乗ってくる。
短く硬い白色の毛が、雄二の黒いスーツに刺さる。
「もう! ……雄ちゃんの服、黒いのに」
そう言いながら、百合香が粘着ローラーを片手に近付いてくる。
「動かないでね?」
言いながら、雄二の太腿へ手を伸ばす。
距離が近い。湯上がりの名残を含んだ甘い香りが、黒いスーツに静かに絡む。
ローラーを転がす手が止まり、代わりに華奢な指先がスーツ越しにゆっくりと動いた。
「……なんだか……すっごく久しぶりでドキドキしちゃうね」
囁きは軽いのに、視線は逃げない。
雄二が腕を伸ばすと、百合香は抵抗せず、そのまま胸元へ引き寄せられた。二人が距離を詰めたことに驚いたしろが、「にゃっ」と不満そうな声を上げて、雄二の膝から床へ飛び下りる。
その音さえ遠くなるほど、雄二は愛しい百合香の身体を腕の中へぐっと引き寄せた。
しろがいた場所を埋めるみたいに、百合香のまろい尻が雄二の太腿の上に乗る。甘い香りが、黒い布地にほろりと溶けた。
唇が触れ合うのは、確かめるような軽さではない。
待っていた時間を埋めるように、深く、静かに重なる。
「雄ちゃん……」
名前を呼ばれただけで、脳の奥が甘くしびれて……思考が崩れる。
愛しい女に求められているという実感が、理屈より先に身体を熱くする。
奪うでも、試すでもない。
ただ、欲しいから触れる。
百合香は、条件を出さない。
ただ、欲しいときに欲しいと言う。
雪絵とのその違いを、雄二はよく知っている。
自分もまた、雪絵には感じない激情を百合香には覚えてしまう。
(俺は、百合香しか愛せない)
だからこそ、百合香と一緒にいられる時間を、守らなければならない。
風がさぁーっと吹き抜けて、ふ……と煙が揺れる。
紫煙の向こうで、現実が戻った。
ここは百合香のマンションではない。
守るために必要なのは、感傷ではない。
雪絵を満足させるための、契約の履行だ。
***
結婚後、今までは分けていた寝室をひとつにした。雄二は扉を開ける前に一度だけ足を止めると、袖口を軽く整える。
百合香との情事の甘い香りは、紫煙で消した。もちろんシャワーは浴びて帰ったが、服まで着替えたわけではない。真実はどうあれ、あくまでも仕事から直帰した体で雪絵の前に立つ方が、いくらか〝契約履行〟に際して誠実さが演出できる気がする。
雪絵自身が許したこととはいえ、そこへ胡座をかき過ぎれば、手痛いしっぺ返しがくる気がした。
雄二は自分で女心に疎いという自覚がある。
だからこそ、その辺は一応気を遣うようにしていた。
黒いスーツにしろの毛が残っていないか、軽く確認してから、静かに扉を開く。
「……夕飯はちゃんと済ませたか?」
「はい。雄二さんが今夜は会食があるとおっしゃったので、一人で簡単なものをいただきました」
「そうか……」
部屋の照明が一段階落とされていて、薄暗いのが、雄二にはありがたかった。
おそらくはこれから始まる〝行為〟を思って、雪絵が暗くしておいたのだろう。
いつものことながら部屋の中は整然としていた。
余計な物はなく、香りも控えめで、温度も一定。
百合香のマンションのような、匂い立つ甘い芳香はしない。
雪絵はきちんと背筋を伸ばし、雄二を迎えた。
視線は揺れない。
あの日と同じ、条件を提示した女の目だ。
「今夜も……その、……」
「雪絵が望むなら……」
恐る恐る探るように雄二を見つめる雪絵を見て、雄二は頷いた。
彼女からの条件はしっかり覚えている。
一言一句、違わずに。
水曜の昼下がり。
週に一度、彼女の店――『ランジェリーショップYURIKA』のシャッターが下りるその日だけが、百合香の完全な休日だった。
百合香を《《住まわせている》》マンションのソファに腰を下ろした途端、彼女が飼っている愛猫の〝しろ〟が当然のように膝に乗ってくる。
短く硬い白色の毛が、雄二の黒いスーツに刺さる。
「もう! ……雄ちゃんの服、黒いのに」
そう言いながら、百合香が粘着ローラーを片手に近付いてくる。
「動かないでね?」
言いながら、雄二の太腿へ手を伸ばす。
距離が近い。湯上がりの名残を含んだ甘い香りが、黒いスーツに静かに絡む。
ローラーを転がす手が止まり、代わりに華奢な指先がスーツ越しにゆっくりと動いた。
「……なんだか……すっごく久しぶりでドキドキしちゃうね」
囁きは軽いのに、視線は逃げない。
雄二が腕を伸ばすと、百合香は抵抗せず、そのまま胸元へ引き寄せられた。二人が距離を詰めたことに驚いたしろが、「にゃっ」と不満そうな声を上げて、雄二の膝から床へ飛び下りる。
その音さえ遠くなるほど、雄二は愛しい百合香の身体を腕の中へぐっと引き寄せた。
しろがいた場所を埋めるみたいに、百合香のまろい尻が雄二の太腿の上に乗る。甘い香りが、黒い布地にほろりと溶けた。
唇が触れ合うのは、確かめるような軽さではない。
待っていた時間を埋めるように、深く、静かに重なる。
「雄ちゃん……」
名前を呼ばれただけで、脳の奥が甘くしびれて……思考が崩れる。
愛しい女に求められているという実感が、理屈より先に身体を熱くする。
奪うでも、試すでもない。
ただ、欲しいから触れる。
百合香は、条件を出さない。
ただ、欲しいときに欲しいと言う。
雪絵とのその違いを、雄二はよく知っている。
自分もまた、雪絵には感じない激情を百合香には覚えてしまう。
(俺は、百合香しか愛せない)
だからこそ、百合香と一緒にいられる時間を、守らなければならない。
風がさぁーっと吹き抜けて、ふ……と煙が揺れる。
紫煙の向こうで、現実が戻った。
ここは百合香のマンションではない。
守るために必要なのは、感傷ではない。
雪絵を満足させるための、契約の履行だ。
***
結婚後、今までは分けていた寝室をひとつにした。雄二は扉を開ける前に一度だけ足を止めると、袖口を軽く整える。
百合香との情事の甘い香りは、紫煙で消した。もちろんシャワーは浴びて帰ったが、服まで着替えたわけではない。真実はどうあれ、あくまでも仕事から直帰した体で雪絵の前に立つ方が、いくらか〝契約履行〟に際して誠実さが演出できる気がする。
雪絵自身が許したこととはいえ、そこへ胡座をかき過ぎれば、手痛いしっぺ返しがくる気がした。
雄二は自分で女心に疎いという自覚がある。
だからこそ、その辺は一応気を遣うようにしていた。
黒いスーツにしろの毛が残っていないか、軽く確認してから、静かに扉を開く。
「……夕飯はちゃんと済ませたか?」
「はい。雄二さんが今夜は会食があるとおっしゃったので、一人で簡単なものをいただきました」
「そうか……」
部屋の照明が一段階落とされていて、薄暗いのが、雄二にはありがたかった。
おそらくはこれから始まる〝行為〟を思って、雪絵が暗くしておいたのだろう。
いつものことながら部屋の中は整然としていた。
余計な物はなく、香りも控えめで、温度も一定。
百合香のマンションのような、匂い立つ甘い芳香はしない。
雪絵はきちんと背筋を伸ばし、雄二を迎えた。
視線は揺れない。
あの日と同じ、条件を提示した女の目だ。
「今夜も……その、……」
「雪絵が望むなら……」
恐る恐る探るように雄二を見つめる雪絵を見て、雄二は頷いた。
彼女からの条件はしっかり覚えている。
一言一句、違わずに。