それぞれの幸せ
「雄二さんがお疲れでなければ……お願いしたい、です……」
 言い淀みながらも、雪絵は視線を逸らさなかった。
 逃げない。
 踏み込む覚悟だけを持った女の目だった。

 雄二は一歩、距離を詰める。

 触れる必要があるなら、触れる。

 雪絵の肩に手を置く。
 雪絵は百合香より五センチばかり背が低く、肉付きも薄い。風呂上がりなのだろう。いつもより体温が高かった。
 百合香の時みたいに心の奥から突き上げてくるような本能的な衝動は感じない。
 熱が先に走ることもない。

 それでも、雄の(さが)。ふるふると……か弱げに揺れる女を前にすれば、ちゃんと男としての機能が反応する。役割としての動作は正確に行える。

 指先から伝わる雪絵の震えに、雄二は少しだけいたたまれない気持ちになった。
 本当に目の前の女は、自分を愛しているのだろうか?
 そう告げたくせにまるで供物(くもつ)として差し出された生贄(いけにえ)のように不安げな瞳を揺らせる雪絵に、自分がひどく残酷なことをしているような気持ちにさせられる。
(いや、実際俺はこの女に酷いことをしているな……)
 百合香しか愛せないくせに、雪絵の条件を呑んで彼女を妻に娶った。そこに計算があったのはお互い様だ。

「……大丈夫だ」
 それは雪絵に向けた言葉なのか、自分に向けたものなのか。

 雪絵は小さく息を呑み、目を閉じた。

 そう。目の前の女から求められているのは、愛ではない。
 覚悟の証明だ。

 雄二は雪絵の小さな唇へやんわりと口付けを落とす。
 感情を伴わない接触は、想像よりも簡単だった。

 雄二が唇を離したとき、雪絵はゆっくりと目を開けた。

 その視線には、先ほどまでの怯えはない。
 極道の妻としての覚悟だけがあるように見えた。
 雪絵は雄二の目の前に立つと、寝巻きにしている浴衣の帯へと自ら手を伸ばした。
 一瞬だけ指先が震えたが、迷いはすぐさま引き戻される。

 そして――。
 雪絵は雄二をじっと見上げたまま、躊躇いなく、帯を解く。
 静かな室内に、衣擦れの音がやけに大きく響いた。
 雪絵の小さな身体を包み込んでいた薄布が足元へ落ちる。
 下着は最初から身につけていないようだったが、雪絵は一切隠す仕草を見せなかった。

 初夜のときと同じだ、と雄二は思う。

 雪絵は手ずから雄二の前へ、何の守りもない状態の小さな身体を差し出してくる。
 情ではなく、契約として。

 雪絵は背筋を伸ばしたまま言った。

「約束は、守ってくださいますね」

 問いではない。
 確認でもない。
 契約履行の宣言だ。

 雄二はゆっくりとネクタイを外す。

 百合香のときのような衝動はない。
 胸を締めつける甘さもない。

 ただ、必要だから触れる。

 白い肌に手を伸ばす。
 体温は確かにあるのに、そこに熱は生まれない。

 これは義務だ。
 証明だ。
 この女へ子種を与えるだけの、事務的な工程だ。

 雪絵は行為の間、ずっと目を閉じている。雄二の方を見ようとはしない。

 その(かんばせ)に浮かぶのは、情ではない。
 少なくとも、雄二にはそう見えた。

 愛されていなくても構わない。
 名前を呼ばれなくてもいい。
 雄二の心が別の女に向いていることを知っていてもなお。

 ――約束が守られたという事実さえあれば。

 きっと雪絵は、そう考えているのだろう。
 ……でなければ、こんな行為、受け入れられるはずがない。

 女としての恍惚ではなく、契約が履行されたことへの安堵。

 雄二は、その違いを理解しているつもりだった。

 だからこそ、感情を挟まずに済む。
 情熱ではなく確認。
 欲望ではなく履行。

 雄二は淡々と、役目を果たした。
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