それぞれの幸せ

【挿話】 桐生百合香『しろと、ふたり』

 扉が閉まる音は、思っていたよりもあっけなかった。

 雄ちゃんの背中が消えたあと、部屋は急に広くなる。

「……しろ」

 そう呼ぶと、しろは小さく鳴いて、さっきまで雄ちゃんが座っていたソファへ跳び乗った。
 まだ、ほんのりと温かい……。

 私はそこへ、そっと手を置いた。

 黒いスーツに付いた白い毛。
 ちゃんと取ったはずだけど、一本くらいは残っているかもしれない。
 雄ちゃんはきっと、あのまま奥さんのところへ帰るんだよね。

 ――そうして今頃は多分……。

 考えないようにしても、浮かんでしまう。

 暗くした寝室。
 きちんと整えられた布団。
 背筋を伸ばして待つ、正妻の姿。

 彼女の姿は、何年か前に一度だけちらりと見かけたことがある。
 雄ちゃんと会えなくなって寂しくてたまらなかった時、たまたま彼女が雄ちゃんと一緒にいるところを見てしまった。
 凄く華奢で……第三者から守られることに慣れた女性に見えた。


「……羨ましいな」

 しろしか聞いていないのに、声が少し震えてしまう。

 雄ちゃんは私の戸籍を汚したくないっていうけど、私、本当は極道の妻だって、構わない。
 肩書きなんて気にしない。
 戸籍も、世間体も、どうでもいい。

 ただ――。
 雄ちゃんの隣に、当たり前みたいに立てる立場が欲しい。

 今夜もきっと、雄ちゃんは奥さんを抱く。
 義務だって分かってる。
 そういう約束だって、知ってる。

 それでも、ダメ。どうしようもなく胸が焼けてしまう。

 私は自分の腕をギューッと抱いた。
 さっきまであった力強い温もりが、もう薄れている。

「……雄ちゃんがね、私は強いって。だから安心して甘えられるって。本当はそんなことないのにね……?」

 しろが小さく喉を鳴らす。

 雄ちゃんは帰る。
 いつも帰ってしまう。
 そうして水曜日だけ、当然みたいにここへ来る。

 それでいいって決めたのは、私。
 そうしよう? って雄ちゃんの背中を押したのも私。

 それなのに――。

 帰らないで、って言えたらどれだけ楽なんだろう。

 しろが膝に乗って、私の手に頭を押しつけてくる。
 私はその白い頭をゆるゆると撫でながら、目を閉じた。

 奥さんと同じように、いつか私もあの人の子どもを抱けたなら。

 そんなことを願う自分が、一番ずるい。

 水曜日は終わり。
 部屋には、雄ちゃんがいつも身に纏っている、ウッディな甘い残り香だけが残っている。

 それが消えるころには、私はきっとまた、平気な顔に戻れる。

 雄ちゃんが安心して身を委ねられる〝百合香〟を演じられる――。
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