それぞれの幸せ
第6章 名は父より

第1節 千崎雪絵『産声』

 痛みは、波のようにやって来た。
 押し寄せては引き、引いたと思えば、また容赦なく押し寄せる。

 握りしめたシーツが汗で湿っている。呼吸を整えようとしても、胸の奥が浅くなるばかりで、うまく空気が入らない。

「大丈夫ですよ、千崎さん。もうすぐですから」

 助産師の声が遠く聞こえる。

 大丈夫。

 何が大丈夫なのだろう? と雪絵は思う。

 私は――何のために、この痛みに耐えているのだろう。

 契約のため?
 それとも――?

 愛されなくてもいい。それでも愛する人の子を、産みたいと思った。

 次の波が来る。
 思考はそこで寸断された。

 ――今日は、水曜日。

 ふと、そんなことが胸をよぎった。

 痛みの合間に、曜日の感覚だけが浮かぶ。
 マタニティ説明会で、休日や深夜は割増料金がかかると聞かされたことを思い出す。幸い今日は平日の昼間だ。

 雄二に掛ける負担が、少しは軽くて済む。
 なんて親孝行な子なんだろう。

 視界の端、雄二の姿が見える。険しい顔で、じっとこちらを見つめている。

 来てくれた。

 それだけで、十分だった。

 幸いにして下腹部には布がかけられていて、大きく開かれた足も、むき出しの秘所も雄二には見えない。

 雪絵は、無意識に雄二へ向けて手を伸ばした。

 ――今この時だけでもいい。せめてあなたの子供を産もうと痛みに耐えている私に、慈悲をください。

 そう(こいねが)ったのだ。

 スルーされることも覚悟していた。でも、雪絵が伸ばした手はしっかりと雄二の大きな手に包まれる。

 強く握られる手は、優しさというより、雄二の強い克己心(こっきしん)の現れのようだった。

 逃げないという意思。

 ――出産に付き添うということを選んだ、という覚悟。

 無論、そこにあるのは、夫の熱ではない。
 自らがしでかしたことへの、責任の体温だ。

 それでもいい、と雪絵は思った。
 雄二がそばにいてくれる。それだけで、十分。


「……千崎さん、次の波が来たらもう一度、力を入れてくださいね」

 言われるまま、息を吸い込む。

 叫び声は出なかった。

 代わりに、低い吐息が漏れる。

 そして――。

 泣き声が、響いた。
 高く、澄んだ、確かな声。
 世界が一瞬、止まったように感じられた。

「女の子ですよ」
 その言葉を聞いたとき、雪絵はようやく涙を流した。

 血を拭われ、白布にくるまれた赤子が胸の上に乗せられる。

 小さい。
 温かい。
 信じられないほど、軽い。

 まず、目を見た。

 まだはっきりと開いていない、腫れぼったい小さなまぶた。

 鼻筋。
 口元。

 ――似ている。

 誰に、とは考えなかった。
 ただ、あの人の血が、確かにここにあると分かった。
 それで十分だった。

 この子は契約のもとに生まれた子だ。

 それでも――。

 血を分けた我が子なら、きっと、愛してもらえる。

 そう信じたかった。


 雄二が近づいてくる。

 その視線が、赤子に落ちる。

 雪絵は、そっと言った。

「……名前を、お願いします」

 それは願いでも、甘えでもない。
 父親として、自覚を持つためにも雄二に決めて欲しい、と思った。

 この子の名を。
 この子の未来を。

 父親として、この子を見て欲しい。
 この子の未来を、ちゃんと見つめて欲しい。

 そのための名付け依頼だった。


 雄二は赤子を見つめたまま、すぐには答えなかった。

 雪絵はそれが嬉しかった。
 すぐには決められないということは、少なくとも雄二はこの小さな命に真剣に向き合おうとしてくれている表れだろう。

 雪絵はそんな雄二を見て、「名前は……後日でも構いませんよ。じっくり考えて、この子に最適な名前を与えてあげてください」と穏やかに微笑んだ。

 あんなに痛かった陣痛が、我が子の顔を見た途端、噓みたいに記憶の彼方へ追いやられた。
 それがあるから、女性は何度も出産に耐えられるんだろう。

 今はまだ、名がなくてもいい。

 この子は確かにここにいるのだから。

「初めまして、《《私たち》》の可愛い赤ちゃん」

 雪絵の声に、腕の中の赤子が「あー」と小さく答えた。
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