それぞれの幸せ

第2節 千崎雄二『百の香り』

 水曜の午後。

 カーテンは半分だけ閉じられていた。

 柔らかな光が、シーツの皺を淡く照らしている。
 百合香の指先が、雄二の肩をなぞる。

「今日は、来てくれるの、少し早かったね」

 低く、甘い声。
 いつもの水曜。
 決まった時間よりも早めに姿を現した雄二(恋人)
 いつもより優しくて激しい行為。

「ちょっとだけ仕事が片付くのが早かったからな」
 さして熱量があるように感じられない突き放すような言い方の中に、雄二の照れが隠されていることを百合香は知っていた。
 だからこそ「そう」とつぶやくなり、ふっと淡い笑みを浮かべた。
 百合香は、雄二が銀行員をしていた頃はもっと分かりやすく愛情を口にしてくれていたことを覚えている。
 それが、こんな風に不器用にしか愛情表現が出来なくなったのは、雄二なりの百合香に対する後ろめたさなのかもしれない。

 百合香はそっと手を伸ばすと、雄二の柔らかな髪に触れる。
 それを合図にしたように、雄二の顔が近付いてきた。
 口づけを待ちわびるみたいに、二人の吐息が甘やかに混ざる。

 その瞬間、床へ脱ぎ捨てられた雄二のスーツのポケットへ入った、携帯電話が無情にも着信を知らせて震えた。

 無機質な振動音が、部屋の空気を切り裂く。

 百合香の動きが止まった。

 動こうとしない駄々っ子を宥めるようにして、百合香がベッド下へわだかまった雄二のスーツを持ち上げる。
 中から取り出したスマートフォンには、『葛西組 真壁(まかべ)』と、表示されていた。

「雄ちゃん、……葛西組の人から」
 百合香から差し出されたスマートフォンに、雄二の瞳がほんのわずかばかりためらいに揺れる。
「……私のことはいいから、出て?」
 雄二は百合香には何も言っていなかったけれど、きっと百合香は相良組(さがらぐみ)の面々からそれとなく聞いて知っているんだろう。自分の妻が、そろそろ産み月だということを――。
 雪絵のことを娘のように可愛がっている葛西(かさい)了道(りょうどう)が、雄二と雪絵が住む家の離れに、自分の組のものを配したのはもう十年以上前のことだ。
 基本家の外回りをモニタリングしている男たちだが、雪絵も彼らがいることは知っている。自分が不在の時に何かあったら、離れの者たちを頼るように言ってあった。
 外出している雄二へ直接電話を掛けず、言いつけ通りそちらを頼るあたりが極道の妻としてはよくできた女だと思う反面、そういうところが可愛くないとも思ってしまう。
 その見回り役から直接雄二の携帯が鳴ったということは、きっと――。

「……」
 電話に出るよう促してくる百合香を、雄二は我知らずまじまじと見つめてしまう。
 今ここでこの電話に応答するということはきっと……百合香にとって聞きたくない事実を聞かせてしまうことになるんじゃないかと思ったからだ。
「雄ちゃん、早く……」
 だが、雄二の視線の先、百合香は表情も声も、至極穏やかに見えた。

 それにわずかばかり安堵して、雄二は百合香に促されるまま通話ボタンを押す。

 珍しく、少し逼迫(ひっぱく)した様子の男の声。
 落ち着いているが、()いているのが分かった。

『千崎さん、奥様が産気づかれました。すぐに病院へ来てください』

 奥様。

 その言葉が、やけに重く響いた。

 雄二は無言で立ち上がる。
 シャツを掴む手がわずかに震えている。

 百合香はシーツを胸元まで引き上げたまま、雄二を見上げた。

「早く行ってあげて」

 それだけ。

 責めも、問いもない。

 雄二は一瞬、百合香を見つめる。

 それから、視線を逸らした。

 本来なら夜まで二人きりで過ごすはずの水曜日。愛しい百合香の部屋を、後にする。

 ドアが閉まる。
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