それぞれの幸せ
 残された百合香は、静かに目を閉じた。

 ――今日は、水曜日。何もこんな日に生まれてこなくても……と思ってしまってから、泣きそうになりながら首を振った。
 子供の誕生に、こちらの都合を押し付けていいはずがないのだから。


***


 差し出されるままに握っていた手に、痛いくらいに込められていた雪絵の力がようやく緩んだ。
 声なき悲鳴とともに、雪絵の乱れた吐息が室内に響く。

 次の瞬間、「ほぎゃぁぁぁ」と、甲高い産声が室内を震わせた。

 雄二はそこでようやく大きく息を吐き、自分が無意識のうちに呼吸を止めていたことに思い至った。

「おめでとうございます、元気な女の子ですよ」

 助産師の短い声。

 それだけで十分だった。

 血に濡れた小さな身体が、慌ただしく処置を受ける。綺麗だとも、可愛いとも思わない。ただ、五体満足かどうか。それだけが気になっていた。

 やがて赤子は、まだほんのりと血をまとったまま、布へくるまれて雪絵の胸へとそっと乗せられる。

 雪絵の腕が震えながら、その小さな身体を(いと)し気に抱き寄せた。

「……はじめまして。無事に生まれて来てくれてありがとう……」

 かすれた声。
 涙で濡れた頬。

 その姿を見て、雄二はようやく実感する。

 ――産まれたのか。

 胸の奥に、重たい何かが、静かに落ちる。

 助産師からは、特に何も言われない。ぱっと見、異常はないということだろう。とりあえずは無事でよかった。

 思ったのは、薄情なことにそれだけだった。


 しばらくして雪絵の上から抱き上げられた赤子が、雄二のもとへやって来る。
 白布にはところどころに血が付着していた。
(早く綺麗にしてやってくれ)
 そう思いながら眺めていたら、助産師が穏やかに言った。

「お父さんも、抱いてみられませんか?」

 雄二は一瞬、視線を逸らす。

「……いや」

  あまりにも小さくて、頼りなくて……自分が抱けば壊してしまいそうだった。

 だが、雪絵がかすれた声で言う。

「……雄二さん、お願い。抱いてあげてください」

 命令でも、甘えでもない。

 静かな依頼。

 雄二はわずかに息を吐いた。

「ああ」

 助産師に腕の形を指示され、ぎこちなく赤子を受け取る。

 軽い。

 思っていたより、ずっと軽い。

 折れそうなほど小さいのに、体温だけはやたらと高く感じられた。
 赤子、というけれど……まだどこか紫がかって見えるその肌の色に、本当に大丈夫なんだろうかと不安になる。

 みどり()のまぶたはまだ腫れぼったく、目は閉じられていた。

 だが、雄二が見ているのに応えるように、ほんのわずかに隙間が開いた。

 黒い瞳。
 まだ焦点も定まらない、だけど一点の穢れさえ混ざらない澄んだ光。

 それでも――なぜか……一瞬、腕の中の嬰児(えいじ)の瞳が、こちらを射抜いたように感じてしまった。

 胸の奥に、何かが走る。

 電流のように。
 見られているはずがないのに。
 なのに、すべてを見透かされたような気がした。

 こんな小さな命。
 あまりにも無垢で、あまりにも弱々しくて、何も知らない存在。

(俺が守らなくて、誰が守るというんだ)

 その感覚だけが、はっきりと落ちてきた。

 ――この子は、俺の娘だ。
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