それぞれの幸せ
 数日後。

 葛西組の息がかかった助産院の一室は静かすぎるくらい静かだった。

 母子同室の室内で、雪絵が穏やかに娘を見つめている。
 出産前よりふくよかになったように見える胸のふくらみが、彼女が母親になった証のように見えた。


「……あの、雄二さん……。少しだけ、席を外してもいいですか?」

 雪絵が眠る娘を見下ろして、ぎこちなくベッドから立ち上がると、申し訳なさそうに言う。

「私がいない間、この子のこと、見ていてください」

「……分かった」

 短く答える。

 雪絵が部屋の片隅に用意された個室――トイレへ消えると、室内には雄二とコッドの中の娘だけが残った。

 出産直後の紫がかった色味は薄れ、顔全体に広がっていたむくみも大分引いている。

 思いのほか整った顔立ちだったんだな、と冷静に思う。

 コッドの中で、娘が小さく身じろいだ。

「ふぇ」

 小さくむずがって、ぱち、と目が開いた。

 黒い瞳。

 まだ焦点も甘いはずなのに、まっすぐこちらを向いているように感じた。
 この子と目が合うのは、これで二度目だ。

 どく、と心臓が鳴る。

 ――百合香?

 考えるより先に、その名が浮かんで自分でも驚いた。

 百合香が生んだ子ではない。似ているわけがないのは分かっている。

 だが、この目――。

 静かで、澄んでいて、どこか強い。

 全てを見透かされるような……なんとも言えない感覚。

「……」

 馬鹿なことを、と思う。
(この子は俺と雪絵の娘だ。百合香とは関係ない)
 それでも、胸の奥に芽生えた百合香の残像が消えない。

 そう思った瞬間、天啓(てんけい)のように〝百香(ももか)〟という名前が落ちてきた。

 ガチャッと音がして、雪絵が個室から出てくる。まだあちこち回復しきっていないんだろう。足を引きずるようにこちらへ歩み寄って来る彼女を見て、雄二は雪絵へ手を差し伸べた。

 雄二は雪絵を労わりながらベッドまで付き添うと、静かに行った。

「この子の名前だが、百の香りと書いて、モモカ……とかどうだろう?」

 雪絵が拒否すれば別の名前にしようと思った。
 だが、雪絵は「百香ちゃん……」とつぶやくなりにっこり微笑んだ。

「いい名前だと思います。気に入りました」

 季節は折しも花々が咲き乱れる初夏。
 雪絵は幸せそうだ。

「雄二さん。百香ちゃんの出生届、私が退院したあとで一緒に出しに行きませんか?」

 出生届は子供が産まれた日を含めて十四日以内に出せばよい。

「ああ……」

 その間に『やはり別の名がいいです』と雪絵の気が変わってくれたなら……。

 そんなことを思いながら、雄二の中でもコッドの中の赤子の名前はもう、百香以外にはない気がしていた。

 まるで何事も起きていないかのように、青空はどこまでも澄んでいた。


***


 相良組の事務所は、いつも通りの空気だった。
 雄二と三井以外の面々は、皆出払っていて留守だった。
 雪絵の退院ついで、市役所へ娘の出生届を出して戻ってきた雄二を見て、三井が煙草をくわえたままつぶやいた。
「今日、雪絵さん、退院したんだろ?」
「ああ」
「母子ともに元気か?」
「ああ」
「そうか……」
 三井は煙草を近くの灰皿で揉み消すと、雄二を横目で見やる。

「……娘の名は……もう決めたのか?」
「ああ。今日、退院がてら、雪絵と一緒に役所へ書類を出してきた」
「……そうか」
 出生届。
 もう簡単には名を変えることは出来ない。
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