それぞれの幸せ
「なんて名にしたんだ?」
「百香……」
三井の眉がわずかに動く。
「ふーん。モモカ、か。可愛い名だな。桃の花って書くのか?」
言いながら、三井が「けど……桃は春の花か」とつぶやいた。
それを肯定するように雄二が吐息を落とす。
「桃の花じゃない。百の香りでモモカって読ませる」
その瞬間。
三井の眉間に皺が寄った。
「……は?」
沈黙。
雄二は何も答えない。
それで十分だった。
「お前、その名は――」
言葉は最後まで紡がれなかった。
代わりに、容赦ない拳が飛ぶ。
鈍い音。
雄二の口の端が切れ、眼鏡がズレた。
だが雄二は避けなかったし、殴り返さなかった。
「千崎、てめぇ……! 自分の娘と雪絵さんに何を背負わせたか分かってんのかっ!?」
低い声。
怒鳴り声ではないが、怒りがビリビリと空気を震わせるような声音だった。
それが余計に重い。
雄二は眼鏡を直したが、何も言わない。
言えるはずがなかった。
もっと早く三井に告げていれば、止められたのかもしれない。
だが、告げなかったのは自分だ。
全ては今更。遅すぎたのだ――。
雄二は、雪絵が幸せそうに「百香ちゃん」と呼ぶ姿を思い出す。
雪絵を見上げる〝百香〟の瞳の奥に、別の名が滲んでは消えた。
「……その名を許したってことは……雪絵さんは……てめぇの女の名を知らねぇんだな? だったら……これからも死ぬ気で隠し通せ! 絶対に知られるな!」
三井に怒りをぶつけられて初めて、雄二は自分の業の深さを自覚できた。
(自覚したところで、もう遅い……か)
三井の怒りに震える表情を見ながら、雄二は血を拭った。
***
夜。
雪絵と百香、二人の退院当日の家は、どこか落ち着かない空気を孕んでいた。
そう感じるのはただ単に、雄二の心の在り様のせいかも知れない。
午前中に助産院を出て、その足で雪絵と百香をともない役所へ向かい、出生届を提出して、家へ戻った。
雪絵と百香に見送られて相良組事務所へ顔を出したのは、昼過ぎのことだ――。
なんだかやけに長い一日だった。
「……おかえりなさい」
雄二の帰宅を察するなり奥から出てきて出迎えてくれた雪絵の声は、穏やかだった。
「……ただいま」
言いながら、あえて顔を伏せるようにして、雪絵に上着を手渡した。
廊下の明かりはそれほど明度が高くなかったから、雪絵には顔を見られずに済んだ。
「百香ちゃん、さっきおっぱいを飲んで、眠ったところなんですよ」
言われて、「そうか……」と短く答えながら、リビングへ向かう。
リビングの一角に置かれたベビーベッドの中で、百香がすやすやと眠っていた。
雪絵と赤子の退院に間に合わせる形で部屋へ置かれたベビーベッドは、葛西了道からの贈り物だった。
中の娘がまだ小さすぎるからか、ベッドばかりが異様に大きく見えた。
そう言えば了道にはまだ娘の名を告げられていない。
雪絵を我が子のように可愛がる了道に百香の名を知らせたときには、もう一度殴られることを覚悟しないといけないだろう。
まだこの家の空気に慣れていない、小さくて頼りない寝息を聞きながら、雄二はそんなことを思った。
「お風呂、湧いてます」
「そうか……」
雄二がベビーベッドから顔を上げ、振り返った瞬間、雪絵の視線が止まる。
「……雄二さん、そのお顔……」
口の端の切れた傷と、頬の青痣。
やはり隠し通せるものではなかった。
「……ちょっとな」
それ以上は言わない。
雪絵も、深くは問わなかった。
「百香……」
三井の眉がわずかに動く。
「ふーん。モモカ、か。可愛い名だな。桃の花って書くのか?」
言いながら、三井が「けど……桃は春の花か」とつぶやいた。
それを肯定するように雄二が吐息を落とす。
「桃の花じゃない。百の香りでモモカって読ませる」
その瞬間。
三井の眉間に皺が寄った。
「……は?」
沈黙。
雄二は何も答えない。
それで十分だった。
「お前、その名は――」
言葉は最後まで紡がれなかった。
代わりに、容赦ない拳が飛ぶ。
鈍い音。
雄二の口の端が切れ、眼鏡がズレた。
だが雄二は避けなかったし、殴り返さなかった。
「千崎、てめぇ……! 自分の娘と雪絵さんに何を背負わせたか分かってんのかっ!?」
低い声。
怒鳴り声ではないが、怒りがビリビリと空気を震わせるような声音だった。
それが余計に重い。
雄二は眼鏡を直したが、何も言わない。
言えるはずがなかった。
もっと早く三井に告げていれば、止められたのかもしれない。
だが、告げなかったのは自分だ。
全ては今更。遅すぎたのだ――。
雄二は、雪絵が幸せそうに「百香ちゃん」と呼ぶ姿を思い出す。
雪絵を見上げる〝百香〟の瞳の奥に、別の名が滲んでは消えた。
「……その名を許したってことは……雪絵さんは……てめぇの女の名を知らねぇんだな? だったら……これからも死ぬ気で隠し通せ! 絶対に知られるな!」
三井に怒りをぶつけられて初めて、雄二は自分の業の深さを自覚できた。
(自覚したところで、もう遅い……か)
三井の怒りに震える表情を見ながら、雄二は血を拭った。
***
夜。
雪絵と百香、二人の退院当日の家は、どこか落ち着かない空気を孕んでいた。
そう感じるのはただ単に、雄二の心の在り様のせいかも知れない。
午前中に助産院を出て、その足で雪絵と百香をともない役所へ向かい、出生届を提出して、家へ戻った。
雪絵と百香に見送られて相良組事務所へ顔を出したのは、昼過ぎのことだ――。
なんだかやけに長い一日だった。
「……おかえりなさい」
雄二の帰宅を察するなり奥から出てきて出迎えてくれた雪絵の声は、穏やかだった。
「……ただいま」
言いながら、あえて顔を伏せるようにして、雪絵に上着を手渡した。
廊下の明かりはそれほど明度が高くなかったから、雪絵には顔を見られずに済んだ。
「百香ちゃん、さっきおっぱいを飲んで、眠ったところなんですよ」
言われて、「そうか……」と短く答えながら、リビングへ向かう。
リビングの一角に置かれたベビーベッドの中で、百香がすやすやと眠っていた。
雪絵と赤子の退院に間に合わせる形で部屋へ置かれたベビーベッドは、葛西了道からの贈り物だった。
中の娘がまだ小さすぎるからか、ベッドばかりが異様に大きく見えた。
そう言えば了道にはまだ娘の名を告げられていない。
雪絵を我が子のように可愛がる了道に百香の名を知らせたときには、もう一度殴られることを覚悟しないといけないだろう。
まだこの家の空気に慣れていない、小さくて頼りない寝息を聞きながら、雄二はそんなことを思った。
「お風呂、湧いてます」
「そうか……」
雄二がベビーベッドから顔を上げ、振り返った瞬間、雪絵の視線が止まる。
「……雄二さん、そのお顔……」
口の端の切れた傷と、頬の青痣。
やはり隠し通せるものではなかった。
「……ちょっとな」
それ以上は言わない。
雪絵も、深くは問わなかった。