それぞれの幸せ
雪絵だって、夫が堅気の人間じゃないことは知っている。幼いころから葛西組組長・葛西了道の家で育てられた雪絵は、きっとそれで折り合いをつけてくれたんだろう。
ただ数秒、雄二を見つめてから、静かに言った。
「先にお風呂へ入ってきてください。出ていらしたら手当てをしますね」
「……すまない」
思わず零れた言葉に、雪絵がわずかに目を瞬いた。
「……え?」
小さく首を傾げる。
ただ傷を負って帰ってきただけなのに……なぜ謝られるのか、分からないという顔。
だが雪絵は、それ以上は聞かなかった。
「今日はお疲れでしょう? 先に温まってきてください」
雄二が廊下へ向かうと、雪絵も静かに後ろをついてくる。
まだ産後間もない身体だというのに、ゆっくりと箪笥を開け、手早く雄二の着替えを取り出した。
おぼつかない足取り。
それでも手つきは慣れていた。
「着替えと下着、こちらに置いておきますね」
着替えとバスタオルを脱衣所へ置くと、雪絵が小さく会釈をしてゆっくりと踵を返す。
雄二は一瞬、その背へ先ほど同様謝罪の言葉を紡ぎかけて、やめた。
「……ありがとう」
その一言を言うので、精一杯だった。
裸になって開けた風呂場の中は、ふんわりと温かかった。浴室暖房のおかげだと分かっているが、今日だけは冷たくてもいいのに、と思った。甘やかされることが、罪悪に感じられた。
湯に肩まで身体を沈めると、じわりと熱が傷に滲んだ。
顔の傷よりも、胸の奥のほうが重い。
天井を見上げる。
湯気がゆらりと揺れるだけで、何も変わらない。
今日、百香という名は役所へ届けられ、正式にあの子を縛る――記号――呪となった。
それだけが、確かな事実だった。
青みががって見える美しい白目と、深淵のような黒々とした瞳。くっきりした二重瞼は、雄二にも雪絵にも似ていなくて……助産院へ見舞いに来た葛西了道によると、雪絵の母親――つまりは祖母からの隔世遺伝らしい。
だがそう言われたところで、会ったことのない人間に我が子を重ねることなんて、雄二には出来なかった。
皆からは雪絵似だと言われる百香だったが、雄二にはどうしても最愛の女――百合香にしか見えない。
雪絵は「雄二さん似ですね」とやわらかに微笑んだが、同じように言ったのは、娘の写真をせがまれて見せた、百合香だけだった。
『私が雄ちゃんの顔しかよく知らないからかもしれないけど、雄ちゃんにそっくりだよ』
愛し気に画面を撫でながら微笑んだ百合香が、思ったより穏やかな表情をしていたことに安堵したのを思い出す。
(百合香に……娘の名はお前の名前から付けたんだ、と話したら……どんな反応をするだろうか?)
喜ぶような女じゃないことは、容易に推測できた。だからと言って、雄二を責めることもないだろう。
(百合香……)
ベビーベッドで眠る幼な子の母が、百合香だったなら、どんなに良かったか。
考えても詮無いことを思いながら、雄二は大きく息を吐き出すと、風呂場を後にした。
浴室内で軽く身体を拭いて脱衣所へ出る。
置かれていた着替えは、きちんと畳まれていた。
雪絵が先ほどこのバスタオルとともに置いてくれたものだ。
それらを身に着けてリビングへ戻ると、百香はまだ眠っていた。
その傍らにいた雪絵が、雄二を見付けて近付いてくる。
ただ数秒、雄二を見つめてから、静かに言った。
「先にお風呂へ入ってきてください。出ていらしたら手当てをしますね」
「……すまない」
思わず零れた言葉に、雪絵がわずかに目を瞬いた。
「……え?」
小さく首を傾げる。
ただ傷を負って帰ってきただけなのに……なぜ謝られるのか、分からないという顔。
だが雪絵は、それ以上は聞かなかった。
「今日はお疲れでしょう? 先に温まってきてください」
雄二が廊下へ向かうと、雪絵も静かに後ろをついてくる。
まだ産後間もない身体だというのに、ゆっくりと箪笥を開け、手早く雄二の着替えを取り出した。
おぼつかない足取り。
それでも手つきは慣れていた。
「着替えと下着、こちらに置いておきますね」
着替えとバスタオルを脱衣所へ置くと、雪絵が小さく会釈をしてゆっくりと踵を返す。
雄二は一瞬、その背へ先ほど同様謝罪の言葉を紡ぎかけて、やめた。
「……ありがとう」
その一言を言うので、精一杯だった。
裸になって開けた風呂場の中は、ふんわりと温かかった。浴室暖房のおかげだと分かっているが、今日だけは冷たくてもいいのに、と思った。甘やかされることが、罪悪に感じられた。
湯に肩まで身体を沈めると、じわりと熱が傷に滲んだ。
顔の傷よりも、胸の奥のほうが重い。
天井を見上げる。
湯気がゆらりと揺れるだけで、何も変わらない。
今日、百香という名は役所へ届けられ、正式にあの子を縛る――記号――呪となった。
それだけが、確かな事実だった。
青みががって見える美しい白目と、深淵のような黒々とした瞳。くっきりした二重瞼は、雄二にも雪絵にも似ていなくて……助産院へ見舞いに来た葛西了道によると、雪絵の母親――つまりは祖母からの隔世遺伝らしい。
だがそう言われたところで、会ったことのない人間に我が子を重ねることなんて、雄二には出来なかった。
皆からは雪絵似だと言われる百香だったが、雄二にはどうしても最愛の女――百合香にしか見えない。
雪絵は「雄二さん似ですね」とやわらかに微笑んだが、同じように言ったのは、娘の写真をせがまれて見せた、百合香だけだった。
『私が雄ちゃんの顔しかよく知らないからかもしれないけど、雄ちゃんにそっくりだよ』
愛し気に画面を撫でながら微笑んだ百合香が、思ったより穏やかな表情をしていたことに安堵したのを思い出す。
(百合香に……娘の名はお前の名前から付けたんだ、と話したら……どんな反応をするだろうか?)
喜ぶような女じゃないことは、容易に推測できた。だからと言って、雄二を責めることもないだろう。
(百合香……)
ベビーベッドで眠る幼な子の母が、百合香だったなら、どんなに良かったか。
考えても詮無いことを思いながら、雄二は大きく息を吐き出すと、風呂場を後にした。
浴室内で軽く身体を拭いて脱衣所へ出る。
置かれていた着替えは、きちんと畳まれていた。
雪絵が先ほどこのバスタオルとともに置いてくれたものだ。
それらを身に着けてリビングへ戻ると、百香はまだ眠っていた。
その傍らにいた雪絵が、雄二を見付けて近付いてくる。