それぞれの幸せ
「お手当て、しますね」
ソファに座る雄二の前に立ち、雪絵は消毒液とガーゼを手に取った。
傷口に触れる指は、壊れ物に触れるかのように繊細で優しい。
「……沁みますか?」
「いや」
短い返事。
雪絵はそれ以上、何も聞かない。
ただ、丁寧に薬を塗り、薄くガーゼを当てる。
ベビーベッドからは、規則正しい寝息が聞こえていた。
百香は、静かに眠っている。
今日、父親が与えた名の真の意味も知らずに――。
雪絵がそっと手を離す。
「できました。これで大丈夫です」
微笑む。
何も疑わず、何も責めず。
雄二は、百香の寝顔へ視線を落とした。
小さな胸が、確かに生きている証のように上下している。
守ると決めたはずだった。
それなのに――胸の奥で、別の名が揺れる。
目の前の妻から、目を逸らしてはいけない。
部屋は静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
雄二は立ち上がると、目の前に立つ雪絵を何も言わずに抱き寄せた。
「……え?」
不意を突かれたように、雪絵の身体がわずかに強張る。
ほんの一瞬の戸惑い。
だが、すぐにその力は抜けた。
雪絵は何も問わず、静かに雄二の背へ手を回す。
産後の細い腕。
それでも、確かにそこにある温もり。
ベビーベッドの中で、百香が小さく寝息を立てている。
静かな家の中で、三人の呼吸だけが重なった。
何も知らないまま、守られている存在。
何も言えないまま、守ろうとする男。
雪絵は、ただ受け止める。
雄二は目を閉じた。
抱きしめる腕に、力を込めることも、言葉を足すこともできなかった――。
***
数日後。
雪絵と百香の退院から少し落ち着いた頃を見計らって、葛西了道と妻の佳代が顔を見せた。
「よう、雪絵。身体の具合はどうだ」
「もう大丈夫です。今日は来てくださってありがとうございます」
雪絵は嬉しそうだった。
百香を抱き上げる佳代の手つきは慣れている。
まるで本当の祖母のように、柔らかく揺らしながらあやしている。
「名前はなんにしたんだ?」
了道の問いに、雪絵が一瞬キョトンとして雄二を見た。
「雄二さん、了道おじちゃんに話してなかったんですか? パパは本当にぼんやりさんですね」
百香に微笑み掛けながら、雪絵が続ける。
「名前は……百の香りと書いて、百香ちゃんにしました。雄二さんが名付けてくれたんですよ」
誇らしげな声音。
途端、了道の視線が、ゆっくりと雄二へ向く。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その目は笑っていなかった。
「……百香か」
だが、すぐに雪絵へと向き直る。
「可愛い名前、つけたじゃねぇか」
豪快に笑う。
だが雄二は知っている。
その言葉が、祝福だけではないことを――。
***
ひとしきり百香をあやした佳代が、そっと雪絵の腕へと赤子を戻す。
「ホントよく眠る子だねぇ。きっと丈夫に育つよ」
「はい。ありがとうございます、佳代おばちゃん」
「佳代、あんまり長居しちゃ、雪絵を疲れさせる。そろそろ帰るぞ」
「はい」
雄二と二人、葛西夫妻を玄関先まで見送りながら、雪絵が百香を抱いたまま嬉しそうに微笑んだ。
「またこの子に会いに来てくださいね」
「ああ。もちろんだ。」
了道は短く頷く。
その視線が、ふと雄二へ移った。
「千崎」
低い声。
「明日にでも、ちぃーとうちへ顔出せや。話してぇことがある」
一瞬、空気が張り詰める。
雄二は、それが何についての〝話〟なのか、察していた。
ソファに座る雄二の前に立ち、雪絵は消毒液とガーゼを手に取った。
傷口に触れる指は、壊れ物に触れるかのように繊細で優しい。
「……沁みますか?」
「いや」
短い返事。
雪絵はそれ以上、何も聞かない。
ただ、丁寧に薬を塗り、薄くガーゼを当てる。
ベビーベッドからは、規則正しい寝息が聞こえていた。
百香は、静かに眠っている。
今日、父親が与えた名の真の意味も知らずに――。
雪絵がそっと手を離す。
「できました。これで大丈夫です」
微笑む。
何も疑わず、何も責めず。
雄二は、百香の寝顔へ視線を落とした。
小さな胸が、確かに生きている証のように上下している。
守ると決めたはずだった。
それなのに――胸の奥で、別の名が揺れる。
目の前の妻から、目を逸らしてはいけない。
部屋は静かだった。
あまりにも、静かすぎた。
雄二は立ち上がると、目の前に立つ雪絵を何も言わずに抱き寄せた。
「……え?」
不意を突かれたように、雪絵の身体がわずかに強張る。
ほんの一瞬の戸惑い。
だが、すぐにその力は抜けた。
雪絵は何も問わず、静かに雄二の背へ手を回す。
産後の細い腕。
それでも、確かにそこにある温もり。
ベビーベッドの中で、百香が小さく寝息を立てている。
静かな家の中で、三人の呼吸だけが重なった。
何も知らないまま、守られている存在。
何も言えないまま、守ろうとする男。
雪絵は、ただ受け止める。
雄二は目を閉じた。
抱きしめる腕に、力を込めることも、言葉を足すこともできなかった――。
***
数日後。
雪絵と百香の退院から少し落ち着いた頃を見計らって、葛西了道と妻の佳代が顔を見せた。
「よう、雪絵。身体の具合はどうだ」
「もう大丈夫です。今日は来てくださってありがとうございます」
雪絵は嬉しそうだった。
百香を抱き上げる佳代の手つきは慣れている。
まるで本当の祖母のように、柔らかく揺らしながらあやしている。
「名前はなんにしたんだ?」
了道の問いに、雪絵が一瞬キョトンとして雄二を見た。
「雄二さん、了道おじちゃんに話してなかったんですか? パパは本当にぼんやりさんですね」
百香に微笑み掛けながら、雪絵が続ける。
「名前は……百の香りと書いて、百香ちゃんにしました。雄二さんが名付けてくれたんですよ」
誇らしげな声音。
途端、了道の視線が、ゆっくりと雄二へ向く。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その目は笑っていなかった。
「……百香か」
だが、すぐに雪絵へと向き直る。
「可愛い名前、つけたじゃねぇか」
豪快に笑う。
だが雄二は知っている。
その言葉が、祝福だけではないことを――。
***
ひとしきり百香をあやした佳代が、そっと雪絵の腕へと赤子を戻す。
「ホントよく眠る子だねぇ。きっと丈夫に育つよ」
「はい。ありがとうございます、佳代おばちゃん」
「佳代、あんまり長居しちゃ、雪絵を疲れさせる。そろそろ帰るぞ」
「はい」
雄二と二人、葛西夫妻を玄関先まで見送りながら、雪絵が百香を抱いたまま嬉しそうに微笑んだ。
「またこの子に会いに来てくださいね」
「ああ。もちろんだ。」
了道は短く頷く。
その視線が、ふと雄二へ移った。
「千崎」
低い声。
「明日にでも、ちぃーとうちへ顔出せや。話してぇことがある」
一瞬、空気が張り詰める。
雄二は、それが何についての〝話〟なのか、察していた。